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'''稲村三伯'''('''いなむら さんぱく'''、[[宝暦]]8年([[1758年]]) - [[文化 (元号)|文化]]8年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1811年]][[121611日]]))は[[江戸時代]]後期の[[蘭学者]]。蘭方医。名は'''前'''(せん)、字は'''白羽'''。
 
町医師である松井如水の三男として[[鳥取市]]川端に生まれる。その後[[鳥取藩]]藩医、稲村三杏の養子となり、[[藩校]]の[[尚徳館]]や福岡の[[亀井南冥]]の塾に学び、三杏の死後藩医を継いだ。[[大槻玄沢]]の『[[蘭学階梯]]』に感銘を受け、[[1792年]]([[寛政]]4年)江戸へのぼり、彼の[[私塾]]である[[芝蘭堂]]に入門、頭角を現す。[[蘭学]]の発展のためには、蘭日辞書の翻訳が必要と考え、師である大槻玄沢にこれ頼む。多忙な大槻はこれを断わったが、元通詞である石井恒右衛門を紹介される。[[フランソワ・ハルマ]]の蘭仏辞書をもとに、[[宇田川玄随]]、[[岡田甫説]]らの協力を得て辞書を編纂、[[1796年]](寛政8年)、日本初の蘭日辞書『[[ハルマ和解]]』(『波留麻和解』、6万4035語収録)を完成させた。
 
実弟である越前屋大吉の不祥事に関し、藩に累加が及ぶのを恐れ[[下総国]]稲毛に隠棲、名も'''海上髄鴎'''(うみがみずいおう)と改めた。