「李相和」の版間の差分

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幼い頃に父を亡くしてからは、伯父の世話で私塾に通い、読み書きや[[漢文]]を修めた。14歳のとき、上京し、[[中央学校]]の中等課程に入り、修了した他後、故郷に戻った。[[1918年]]の夏、李は旅に出る。[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]から[[江原道 (日本統治時代)|江原道]]一帯をさすらい、家に戻ったのは6ヶ月後であった。この旅は李にとって、生きる意味、人生を考える旅であったらしい。「我が寝室へ ({{Lang|ko|나의 침실로}})」(1923)はこの放浪の旅の中で完成させたものと述べている。
 
[[1919年]]3月1日、李が18になる年に[[三一独立運動]]が起こる。李はこの運動に呼応し、[[白基萬]]と共に同月8日、大邱で独立運動を起こした。その後、[[日帝朝鮮総督府]]の検挙を逃れて[[ソウル特別市|ソウル]]に隠れ、同郷の友人である、[[延禧専門学校]]に通う[[声楽家]]の[[朴泰元]]のところに身を寄せる。この頃から、祖国の運命に悲観し、酒に酔うようになった。
 
1919年陰暦10月、人に勧められるまま、[[公州]]の名門である[[徐漢輔]]の娘、[[徐順愛]]と結婚する。実は李には密かに思いを寄せていた女性がいた。[[慶尚南道]]出身の[[孫畢蓮]]という女性で、独立運動の同士でもあり、李はこの女性とかなり親しい関係であったという。
 
[[1923年]]、渡日し、[[東京]]の[[アテネ・フランセ]]に通う。李は東京に留学することが目的ではなく、[[フランス]]へ行く足がかりにするためであった。日帝当局朝鮮総督府から要視察人物とされていたため、ソウルからフランスへ行くことはできなかった。アテネ・フランセで[[フランス語]]を学びながら機会をうかがっていたが、その年の9月に[[関東大震災]]が発生し、東京に住む朝鮮人が大迫害を受け、李も留学どころではなくなってしまう。翌年[[1924年]]春に帰国することになった。東京にいた頃、[[柳宝華]]という女性と恋人の仲になったという。柳宝華は後の[[1926年]]肺病にかかり、李の膝に顔を伏せて死んだ。
 
ソウルに戻った李は、嘉会洞の[[翠雲亭]]に住み、詩作に没頭した。「金剛 頌天」「逆天」「別離」などはこの頃の作品である。また、この頃、李は相当の酒豪であったと言われる。[[1925年]]、[[KAPF]]の設立に参加する。[[1927年]]、故郷の大邱に戻る。李は常に官憲に監視され、やがてそうした圧力が李の精神を壊し、酒と女に溺れ堕落していく。[[1934年]]まで、1篇の詩も発表されなかった。
 
[[1935年]]、[[中国]]に渡り、独立運動を起こしている兄の相定に会った。そのまま、1年ほど中国を遊覧し、[[1936年]]に帰国した。帰国した李を、日帝当局朝鮮総督府は[[スパイ]]容疑で逮捕、20余日にわたり[[拷問]]した。この拷問で李の身体は極度に衰弱し、その後、回復することもなかった。
 
1936年から40年まで、[[嶠南学校]]で教育や文化活動に取り組む。[[1940年]]からは再び筆を執り、『[[春香伝]]』の英訳や『国文学史』、『フランス詩』などの評訳を出す予定をしていた。しかし、それらを完成させることもなく[[1943年]]、衰弱しきった李は床に伏せ、陰暦3月21日朝8時、夫人の傍で息を引き取った。李の遺骸は[[慶尚北道]]達城郡花園面別里1区の[[月城李氏]]の墓地に埋葬された。1943年、[[白基萬]]や[[徐東辰]]など同郷の友人らの提議で、日帝朝鮮総督府の目を避けるため「詩人白唖李公諱相和之墓」とだけ刻まれた墓碑が建った。解放後、[[金素雲]]の提唱で大邱市の[[達城公園]]に「尚火詩碑」が建てられた。
 
== 年譜 ==