「キリスト教徒」の版間の差分

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東ローマ帝国圏内のギリシア語を主に用いる教会と、西ヨーロッパ・北アフリカのラテン語を主に用いる教会は、教会観の違いや政治上の背景の違いから神学上の大きな差異を生じ、これも分離していった([[東西教会の分裂]])。もとより西方では、[[ローマ教皇]]が地方行政権を持ち、一大政治勢力でもあったのだが、分裂後はこの傾向が一層強まった。西方からは、ゲルマン、スカンジナヴィア、一部スラブ地域への伝道が行われた。その一方、ゲルマン民族の襲来とイスラム国家の進展によって、北アフリカは西方キリスト教地域から失われた。
 
中世西ヨーロッパの[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]においてはローマ教皇が繁栄を極め、[[精神世界]]の頂点にあった。教会や付属団体がキリスト教を献身的に奉じて多くの国で熱心に神の言葉を広めたり[[修道院]]を建てるだけでなく、人間精神への多大な影響力を通じて、ついには当時の君主たちが持つ政治力に匹敵するほどの力を得て民衆の支持を受けた。権力の集中は教皇や高位聖職者の腐敗を招き、一部には本来禁じられている蓄妾や聖職禄めあての役職の兼任などの弊害も出た。
 
この時代 多くの人間は生涯を神に捧げ、教会に土地、金銭、財産を寄付することで信仰を態度に表した。そのため[[ローマ教皇]]は徐々に西ヨーロッパ大陸で一番重要な人物となっていった。神への一途な献身と崇拝を示すために、豊かな資産でしばしば美しい[[大聖堂]]が建設された。教会の[[修道院]]は勉学と研究の場であり、のちに現代の[[大学]]の基礎となった。また教会は病人の看護のための最初の病院を作った。その一方で、当時の社会不安と聖書中の終末預言が結び付いた集団的熱狂もたびたび現れた。