「生き埋め」の版間の差分

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また、[[雪]]に埋まる、積もった雪の中に屋根などから落ちて生き埋めになって[[凍死]]に至る、などといった雪に原因する生き埋め事故は山岳部ばかりでなく人里でも頻繁に起こる。
 
[[2000年代]]後半以降の[[ロシア]]では「[[死]]への[[恐怖]]を克服するため」「自らの[[忍耐]]力を試したい」などと称して自らの意志で生き埋めとなるという[[修行]]めいた無謀な挑戦の決行者が現れ、[[インターネット]]を通じて[[流行]]するようになってしまった<ref name="AFPBB News 2011">
{{Cite news |date=2011-06-02 |title=ロシアで生き埋め実験が流行、またもや死者 |url=http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2803683/7290720 |work=AFPBB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=2012-01-03}}</ref>。インターネット上での[[実況中継]]者が多数現れるなか、[[2009年]]の夏には北西部の都市[[ヴォログダ]]にて友人の助けを借りて森で生き埋めになった男性1名が死亡し、[[2011年]]6月にも極東部の[[ブラゴヴェシチェンスク]]にて男性1名が死亡した<ref name="AFPBB News 2011" />。後者の死因は、一晩中降り続いた大雨が通気孔を塞いでしまったことによる[[窒息]]であったと推定された<ref name="AFPBB News 2011" />。動機と状況は大きく異なるが、自ら生き埋めになって死亡した事故は[[日本]]にも例がある。2011年8月27日、[[石川県]][[かほく市]]の[[大崎海岸]]の[[砂浜]]で若い夫婦が[[落とし穴]]に落ちて死亡したが、落とし穴は2.4[[メートル]]四方、深さ2.5メートルという大きなもので、夫の誕生日を祝うイベントとして妻が企画し、友人たちと一緒に掘ったものであった<ref name="Jcast 2011">
{{Cite news |date=2011-08-29 |title=あまりに大きすぎた落とし穴―夫婦2人生き埋め窒息死 |url=http://www.j-cast.com/tv/2011/08/29105540.html?p=all |work=J-CAST テレビウォッチ(ウェブサイト)|publisher=[[ジェイ・キャスト]] |accessdate=2012-01-03}}</ref>。上部の穴に被せた[[ブルーシート]]を砂で隠し、シートの端々を押さえる[[重し]]として大量の砂を使っていたため、誤って落ちた際に想像以上の砂が体と共に穴に落ちることとなり、しかも上半身を下にして落ちたことから、姿勢を戻すことができないまま窒息死したものと考えられている<ref name="Jcast 2011" />。
 
{{See also|1=川崎ローム斜面崩壊実験事故}}
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=== 宗教的行為、政治的行為 ===
'''[[宗教]]的および[[政治]]的行為として行われる生き埋め'''は、多くの場合、[[生贄]](動物を含む)や[[人身御供]]の一種である。[[日本]]にはこの形の人身御供として[[人柱]]があった。人柱に類似の人身御供は日本以外の地域でも散見される。ほかにも、[[アフリカ]]は[[マリ共和国]]の都市[[ジェンネ]]に残る伝説では、[[9世紀]]末に都市が築かれる際、一人の少女タパマ・ディネポ (Tapama Dienepo) という一人の少女が、都市防衛と繁栄[[祈り|祈願]]のため、都市の[[城|城郭]]に生き埋めにされたという。
 
また、政治的側面を多分に備える宗教的行為と言うべきであるが、権力者の死に伴う[[殉死]]者が殉葬という形で生き埋めにされることは古代世界において稀ではなかった。『[[日本書紀]]』の記すところでは、[[倭彦命]]の死に伴って側近たちが主人の墓の周辺に生き埋めにされたが、その最期があまりにも悲惨な様子であったことから、これよりのち、[[野見宿禰]]の考案した[[埴輪]]をもって[[殉死]]者の代わりとする[[習慣]]が生まれたという(埴輪の起源譚)。記述の厳密な信憑性はともかくとして、当時の日本には生き埋めによる殉死が故習として存在し、やがて廃止されるに至ったことが窺える
 
そのほか、[[信仰]]がらみの[[虐待]]でそれ生き埋めが行われることもある。
 
{{See also|1=ハイヌウェレ型神話}}
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具体的に[[事件]]を挙げるならば、[[東大阪集団暴行殺人事件]]([[2006年]]、日本)など典型と言える。[[重機]]を使って掘った穴に被害者たちを生きたまま埋めて殺した集団[[リンチ]]事件である。日本では他に、[[貰い子殺人#具体例|佐賀貰い子殺人事件]]([[1902年]])、[[警察庁広域重要指定118号事件]](千葉・福島・岩手誘拐殺人事件。[[1986年|1986]]-[[1991年]])、[[栃木生き埋め殺人事件]]([[1992年]])などがある。
 
また、政敵や邪魔者(無用となった味方、多すぎる[[捕虜]]なども含む)の排除などを目的に[[殺人]]が行われることは歴史の常とさえ言えるが、その手段として生き埋めが行われることもあり、る。例えば、[[平安時代]]後期の[[日本]]の武将・[[平成幹]]は口封じのために謀殺されたが、殺害手段は生き埋めであった。他の人物では、[[八釣白彦皇子]]([[456年]]、日本)、[[汪寿華]]([[1927年]]、[[中国]])なども生き埋めにされて殺されている。
 
本来は[[信仰]]心によって立つ[[人柱]]という[[風習]]に名を借りた組織的[[殺人]]が、過去には行われていた(人身御供の一面を持ちつつ行われる、体力的消耗を来した[[奴隷]]的人材の殺処分。''cf.'' [[常紋トンネル]])。
 
== {{Anchor|生き埋め (生態)|}}生き埋め(生態) ==
動物の[[生態]]において'''生き埋め'''という行為に及ぶ例はあまり知られていないがしかし、[[プレーリードッグ]]の雄などは[[縄張り]]争いをするライバル雄を巣穴で生き埋めにして殺すことがある。巣穴は地中で複雑に繋がっているため、他の出入り口から逃げることも不可能ではないが、その構造利用活かして生還する個体は稀にしかいない。
 
== {{Anchor|生き埋め (戦争)|}}生き埋め(戦争) ==
[[ファイル:M9 Armored Combat Earthmover.jpg|thumb|right|230px|[[アメリカ陸軍]]の装甲ブルドーザー「[[M9ACE]]」<br />敵の[[塹壕]]を[[戦闘員]]もろとも埋めてしまう作戦行動が可能な[[戦闘工兵車]]であり、通常戦闘の範疇を超えた非[[人道]]性が問題であるともされている。]]
 
[[戦争]]における[[戦術]]および[[戦闘]]の手段や結果としても生き埋めがあるが、これは[[戦闘員]]や非戦闘員を殺害するのであって、[[刑罰]]とは区別されるべきものである。ただし、[[降伏]]した[[捕虜]]や一般住民[[死刑|処刑]]などといった行為のなかには、どのような[[大義名分]]が掲げられていようとも、ただの[[恨み|私怨]]による[[報復]]や[[猟奇]]的な[[虐殺]]としかとれないものがあり、戦争行為と刑罰、および、犯罪行為の区別を明確にすることは難しい。
 
[[フランス]][[軍人]][[トマ・ロベール・ブジョー]]配下のサンタルノ大佐は、[[1845年]]、[[アルジェリア]]での戦いで洞窟に逃げ込んだ[[アラブ人]]を全て生き埋めにして殺害し、その後の2年間、[[大量虐殺]]を続けた。
[[1990年代]]の[[湾岸戦争]]においては、ドーザーブレードを装着した[[アメリカ陸軍]]の装甲[[ブルドーザー]]「[[M9ACE]]」(■右に画像あり)によって[[イラク]]軍の[[塹壕]]を埋め立てる作戦が行われた結果、逃げ遅れたイラク軍兵士の一部が生き埋めとなったという報告がある(''cf.'' [[塹壕#現代の歩兵と塹壕]])。また、イラクの[[政治家]][[アリー・ハサン・アル=マジード]]は、湾岸戦争停戦後、自国南部で[[シーア派]]住民による反政府蜂起([[1991年]]インティファーダ)が起こると苛烈極まる[[弾圧]]の指揮を執り、った。捕らわれた住民は[[拷問]]を受けた後、戦車で轢き殺されたり、生き埋めなどの残虐な方法で殺された(''cf.'' [[アリー・ハサン・アル=マジード#湾岸戦争後]])。
 
[[9世紀]]([[平安時代]]初期)日本の[[蝦夷]]の軍事指導者であった[[アテルイ]]は、[[ヤマト王権#大和朝廷|大和朝廷]]軍の[[坂上田村麻呂]]に敗れて降伏し、処刑されたが、故郷に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らされて生きながら埋められ、惨殺されたと伝えられる。[[通説]]ではあるが、生き埋めにした上に土をかけ、素直に降伏して[[奴隷]]となった者たちにその上から踏みつけさせたといい、これが今日に伝わる[[ねぶた]]祭りの由来であるとしている。
 
== {{Anchor|生き埋め (刑罰)|}}生き埋め(刑罰) ==