「藤原聖子」の版間の差分

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== 夫婦関係 ==
崇徳院は[[女房]][[兵衛佐局]](法印信縁女で[[大蔵省#律令制における大蔵省|大蔵卿]][[源行宗]]の養女、[[重仁親王]]生母)を深く寵愛し、聖子とは疎遠であったという説があるが、これは的確でない。崇徳天皇の在位中、聖子は常に天皇と同殿しており、退位後も、しばしば上皇が聖子の[[御所]]へ[[行幸|御幸]]、もしくは聖子が上皇御所へ[[行啓]]している。ただし、保延6年([[1140年]])9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『[[今鏡]]』第八、腹々の御子)。[[保元の乱]]の後、崇徳院が[[讃岐国|讃岐]]へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない[[女房]]で、院の寵愛篤い[[藤原重子|修明門院]]はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの世話をするために、近侍していた人々がお供をした。皇嘉門院のように、只今の[[女院]]、かつて天皇の正妃・母后として[[中宮]]・[[皇太后]]の尊位にあった女性は、上皇とほぼ同等の身位にあり、上皇に随侍する立場にない。女院は、同行しないというより、通例では同行できないのである。そして何よりも、讃岐への同行は[[関白]]の位にある[[藤原忠通|忠通]]が許さなかったに違いない。皇嘉門院、忠通の嫡妻腹の一人娘で、忠通がその遷幸を傍観するはずがないのである(忠通は、[[摂家|摂関家]]の体面を粉々に潰した[[保元の乱]]において、辛うじて戦勝者となっている。忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は[[朝廷]]で尊重された
[[ファイル:Tukinowano minamino misasagi.jpg|thumb|250px|月輪南陵]]
 
== 略歴 ==
日付は旧暦。
* [[保安 (元号)|保安]]3年(1122年)  生誕(父は[[関白]][[藤原忠通]]・母は北政所宗子)
* [[大治 (日本)|大治]]3年(1128年)  入内に先立ち[[従三位]]に叙階(11月9日)
* 大治 4年(1129年) [[崇徳天皇]]に入内(1月9日)、女御宣下(1月16日)
* 大治 5年(1130年) 中宮(2月21日)
* [[永治]]元年(1142年) 皇太后(12月27日)
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* [[新田義兼]]
 
 
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{{DEFAULTSORT:ふしわら の きよこ}}
[[Category:日本の皇后]]
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[[Category:1122年生]]
[[Category:1182年没]]
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[[en:Fujiwara no Kiyoko]]