「谷崎潤一郎訳源氏物語」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
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白鳥正宗による評論にその根拠を求める見解もある。白鳥は谷崎訳の作業が行われる前に完成したアーサー・ウエイリーによる源氏物語の英語訳を極めて高く評価し、「私はこの英訳の出現によって初めて源氏物語に何が書いてあるのかを知ることが出来た。」と述べており、また一つ前の作品である「春琴抄」を絶賛した白鳥が同時期の随筆の中では雑誌「改造」に連載されていた谷崎の最新作である戯曲「顔世」を、「前作と同じ程度の技量で同じ程度の作品を作り出すことは芸術家としては全く無意味な行為である」と酷評したことが、「源氏物語の現代語訳」というこれまで誰もなしえなかった大事業への原動力になったのではないかとの指摘もある。
 
後に1960年(昭和35年)ころに谷崎松子が伊吹和子に語ったところによると、松子が谷崎対して語った「お茶やお花やピアノのお稽古などと同じように、自分も教養の一つとして源氏物語を読みたいが、原文のままでは難しすぎるし、いまある訳本も学問的な物でいまひとつわかりやすいものがみつからない。与謝野晶子訳もわかりやすいがダイジェストである。自分や妹のような女性が読めるような現代語の全訳で、嫁入り道具になるような豪華な源氏物語の本が欲しい」という要望に対応するためであるとしている<ref>伊吹和子「「谷崎源氏」とよばれるもの」鈴木一雄監修秋山虔・室伏信助編『国文学解釈と鑑賞 別冊 源氏物語の鑑賞と基礎知識 29 花散里』至文堂、[[2003年]](平成15年)7月8日、pp. 179-195。 </ref><ref>伊吹和子「源氏物語」千葉俊二編『別冊国文学 54 谷崎潤一郎必携』学燈社、2001年(平成13年)11月、pp. 56-57。及び千葉俊二編『特装版谷崎潤一郎必携』学燈社、2002年(平成14年)5月、pp. 56-57。 ISBN 978-4-3120-0545-8 </ref>。この「嫁入り道具になるような豪華な源氏物語の本が欲しい」という点について、実際普及版とは別に「豪華愛蔵版」が作られることになた。谷崎は、残された手紙の中で翻訳の文体などと並んで、時にはそれ以上に製本や装丁について深い関心を示し、しばしば積極的な意見を述べている。また雨宮庸藏の日記の中でも谷崎が製本や装丁について関心を示していることを伺わせる記述が存在する<ref>雨宮広和編雨宮庸藏『父庸藏の語り草』雨宮広和(私家版)、2001年(平成13年)。 </ref>。
 
==== 旧訳における削除と復活 ====
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2度目は上記の削除部分を復活するとともに、全編にわたって言葉使いを読みやすいように改め、1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)12月にかけて『潤一郎新訳 源氏物語』全12巻として刊行された。これは、「新訳」、「12巻本」などと呼ばれており、豪華版全5巻別巻1巻や新書版全8巻も刊行されている。1945年(昭和20年)10月9日付けの谷崎が中央公論社社長嶋中雄作に宛てた手紙によれば、谷崎は「源氏は今度は先般の訳に手心或いは削除したる部分を原文通りに改め完全なる訳として出版するも可、今一度くらいあの紙型を用いるも可」と述べ、当初は訳を改めて出版することと並んで旧訳をそのまま増刷するという選択肢も示している<ref>水上勉・千葉俊二編著『谷崎先生の書簡 ある出版社社長への手紙を読む 増補改訂版』中央公論新社、2008年(平成20年)5月、p. 148。 ISBN 978-4-1200-3939-3 </ref>。旧訳の時代とは情勢が一変した時代に作成されたこの新訳でも、山田孝雄が旧訳から継続して校閲に当たっており、旧訳と同様に「校閲 山田孝雄」と表記されている。山田の指示は、このときも多くが皇室関係の記述についてのものであり、谷崎はそのほとんどについて指示に従って書き直していたという<ref>伊吹和子,ゲイ・ローリー著西野厚志訳「「谷崎源氏」端緒、経過、再考 経過-新訳」千葉俊二,アンヌバヤール・坂井編『谷崎潤一郎 境界を超えて』笠間書院、2009年(平成21年)2月、pp. 186-191。 ISBN 978-4-3057-0453-5 </ref>。
 
当初新訳は削除部分を復活するほかは比較的小規模の改定にとどめる予定であったとされるが、それでも谷崎は作業に当たっては専門家の意見を求めることとなった。谷崎はまず新村出の意見を求め、新村は澤潟久孝の意見を求め、澤潟は玉上琢弥とその補佐役として榎克朗を紹介し、これ以後しらくは榎が主として作業を行うこととなった。1948年(昭和23年)9月16日 榎克明が初めて谷崎宅に赴き谷崎と面談した。このとき榎が最初に命じられたのは源氏物語についての作業ではなく「世継物語」において老大納言と若い北の方との間に子供があったのかを調べるという「少将滋幹の母」執筆のための歴史物語に関する調査であった。これ以後榎は週に2・3回谷崎邸に出向くようになる<ref>榎克明「谷崎潤一郎氏と「少将滋幹の母」のことなど(追悼小紀)」『国語と教育』第1号、大阪教育大学国語教育学会、1965年(昭和41年)1月、pp. 25-30。 </ref>。1949年(昭和24年)5月に入り、榎は旧訳において削除された部分の洗い出しを命じられ、源氏物語新訳のための本格的な作業が始まる。1949年(昭和24年)6月 谷崎は榎とともに公職追放のため隠棲状態になっていた山田孝雄を伊勢に訪ね、この新訳においても校閲を願った。このとき谷崎が山田に対して「前回の訳に誤りなどありましたらご指摘頂きたい。」と申し出たのに対して山田は「私が校閲したのだから誤りなどあり得ません」の述べたものの、新訳に対する改めての校閲については了承した。1949年(昭和24年)10月に刊行された「中央公論」文芸特集第一号において、『藤壺 「賢木」の巻補追』を発表し、旧訳で省略した[[賢木|第10帖 賢木]]巻の一部を補筆した<ref>谷崎潤一郎「藤壺 「賢木」の巻補追」『中央公論』文藝特集第1号、1949年(昭和24年)10月。のち『谷崎潤一郎全集第二三巻』中央公論社、1983年(昭和58年)7月。秋山虔監修島内景二・小林正明・鈴木健一編集『批評集成・源氏物語 第5巻 戦時下篇』ゆまに書房、1999年(平成11年)5月、pp. 305-309。 ISBN 4-89714-635-6 </ref>。1950年(昭和25年)5月 榎が病気となったため同月一杯で助手を辞し、6月に入院する。代わりに玉上琢弥が直接作業を行うようになるとともに宮地裕が新たに作業に加わる<ref>玉上琢弥「「谷崎源氏」をめぐる思ひ出(上)」『大谷女子大国文』第16号、大谷女子大学国文学会、1986年(昭和61年)3月、p. 123。 </ref>。1951年(昭和26年)1月26日京都大学文学部の教務補佐員であった玉上琢弥が谷崎と初面談した。この際に玉上は発表したばかりの自身の論文「源氏物語音読論」の抜き刷りを名刺代わりに渡しており、玉上はこれが谷崎の新訳における文体の変更に繋がったのではないかとしている<ref>玉上琢弥「「谷崎源氏」をめぐる思ひ出(上)」『大谷女子大国文』第16号、大谷女子大学国文学会、1986年(昭和61年)3月、p. 123。 </ref>。1951年(昭和26年)1月31日に玉上琢弥は初めて仙台に山田を訪ねている<ref>玉上琢弥「「谷崎源氏」をめぐる思ひ出(中)」『大谷女子大国文』第17号、大谷女子大学国文学会、1986年(昭和61年)12月、p. 25。 </ref>
 
この翻訳は新たに原稿用紙に書き下ろされたのではなく、当時1セット10円程度で幾らでも購入できるようになっていた旧訳の本を何セットも用意し、その旧訳の本に加筆訂正する形で執筆された。まず最初に玉上の指導のもとで榎、宮地らを含む若手の学者、大学院生、国語国文科の学生ら<ref group="注釈">この中には後に谷崎の口述筆記を行うことになる伊吹和子も含まれている。</ref>がいくつもの旧訳の本にそれぞれの意見を書き込み玉上に提出した。但し「若紫までは私のした仕事があったので、それを基にすればよく、末摘花からを分担して貰った」とされる<ref>玉上琢弥「「谷崎源氏」をめぐる思ひ出(中)」『大谷女子大国文』第17号、大谷女子大学国文学会、1986年(昭和61年)12月、p. 27。 </ref>玉上琢弥がそれらの意見を集約して改めて一つの旧訳の本に書き込んで谷崎の元に送った。谷崎はこれらの意見を参考にして別の旧訳の本に新たな訳文を書き込んで(そのため特に書き込みの無かった部分は旧訳のままとなった)中央公論社に送った。中央公論社ではこれをもとにゲラを複数部作成して関係者に送付した。なお、伊吹和子によるとタイプ原稿は4部作成され、1部が中央公論社に保管されたほか、玉上琢弥、校閲者の山田孝雄、そして谷崎自身に送られたというが、宮地によると宮地と榎にもタイプ原稿が送られていたという。玉上と校閲者の山田孝雄はゲラを見てそのゲラに書き込みを行いそれぞれ谷崎の元に送った。谷崎はこれらの書き込みの入ったゲラを参考にして最終稿を作成したとされる。これらの作業の結果膨大な未定稿や参考資料が作成され後世にのこされることとなった。これらのうち最もまとまって存在するのは谷崎自身の手許に残り、その後谷崎の遺族、[[兵庫県]]の[[芦屋市谷崎潤一郎記念館]]を経て[[國學院大學]]が管理することとなった以下のものである。
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なお、以下のような理由から、上記以外の中間段階の草稿ないし資料がいくつか存在したと考えられる。
*國學院大學に現存する上記の「谷崎書き入れ旧訳本」の本文とそれを元に中央公論社で作成されたとされるタイプ原稿の本文は一致しないことがしばしばあることから國學院大學に現存する書き入れ旧訳本とは別にタイプ原稿の直接の元になった谷崎による書き入れ旧訳本が存在すると考えられる。伊吹和子によると「中央公論社にこのときの谷崎の原稿が保管されている」としていることから伊吹の言うところの「中央公論社に補完されている原稿」がそれである可能性がある。
*玉上は後に[[1964年]](昭和39年)から[[1969年]](昭和44年)にかけて自身が源氏物語の注釈書『[[源氏物語評釈]]』を著すことになるが、その際「この書き入れ旧訳本が大変役に立った」と語っている。また玉上の元にある旧訳本には幾つかの巻の巻末に作業が完了した日付が書き込まれているとされるが國學院大學蔵本にはそのような書き込みは全く存在しない。さらに玉上が作業の進行状況を記録した大学ノートには、幾つかの巻については作業が完了したされると谷崎に送ったとする日の間に間が開いており、昭和27年6月8日の項目には「巻十一浄写了」との記述が残されている<ref>玉上琢弥「「谷崎源氏」をめぐる思ひ出(中)」『大谷女子大国文』第17号、大谷女子大学国文学会、1986年(昭和61年)12月、pp. 28-30。 </ref>。これらのことから谷崎の元に送られたのは「浄書」であり、これとは別に玉上の手許に残された「書き入れ旧訳本」も存在したと考えられる。
*玉上の書き入れ本の元になった、玉上の指導の許で若手の学者、大学院生、国語国文科の学生らが書き込んだ旧訳の本が数組存在するはずであるが、それらは現存しない。
この新訳ではその序文において以下の「3つの方針」が掲げられ、その上で「私は此の方針に添うために、旧訳の文体を踏襲することを断念し、新しい文体に書き改める決意をした。」と語っており、その結果旧訳が「である」体であったのに対してこの新訳は「ですます」体になっている<ref>秋澤亙「谷崎源氏と玉上琢彌--國學院大學蔵「『潤一郎新訳 源氏物語』自筆草稿」から (源氏物語研究) 」國學院大學綜合企画部『國學院雜誌』第109巻第10号(通号第1218号)、2008年(平成20年)10月、pp. 174-188。 </ref>。
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=== 第3回の翻訳 ===
3度目の翻訳は1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)に『潤一郎新々訳 源氏物語』全10巻別巻1として刊行された。この新々訳は、新字・新仮名遣いに統一して名作を収録する全80巻からなる[[中央公論社]]版「日本の文学」シリーズの一つとして「日本の文学23谷崎潤一郎(一)」が発刊されあっところ、これが大変好評であったために、この谷崎訳源氏物語も新字・新仮名遣いに改稿して出版したものである。この翻訳は「新々訳」、「11巻本」などと呼ばれている。この新々訳の作業には谷崎自身はあまり関わってはいなかったとされる。このときの新々訳の作業について当初谷崎は、問題点の洗い出し等の準備作業を中央公論社の社員が行うように求めたが、当時の中央公論社では時間的・能力的に困難であり、結局それらの作業は当時[[東京大学]]で源氏物語を講じていた[[秋山虔]]及びその指導下にあった助手や大学院生たち若手学者グループによって行われることとなった。この新々訳については、当時すでに死去していた山田孝雄は関わっていないため旧訳と新訳にあった「校閲 山田孝雄」の表記は無く谷崎の名前のみがクレジットされている。また玉上らの京都大学のグループも作業には関わってはおらず、新訳の時に谷崎の口述筆記を勤めた伊吹和子は中央公論社の編集部員として本作業に関わっている。この翻訳の第9巻以降は谷崎没後の発売となった。中央公論社では、谷崎死去の際「新々訳源氏物語の原稿はすべて完成しており、未刊の巻についても概ね予定通り刊行される。」旨広告している。また谷崎の葬儀の際には、発売予定であった第9巻を特に一部前倒しして作成し、伊吹和子が谷崎の棺に納めている<ref>伊吹和子,ゲイ・ローリー著西野厚志訳「「谷崎源氏」端緒、経過、再考 経過-新々訳」千葉俊二,アンヌバヤール・坂井編『谷崎潤一郎 境界を超えて』笠間書院、2009年(平成21年)2月、pp. 191-192。 ISBN 978-4-3057-0453-5 </ref>。
 
*第1 1964年(昭和39年)11月25日
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初期の計画時には3万部の売上げを見込んでおり<ref>谷崎潤一郎著芦屋市谷崎潤一郎記念館・芦屋市文化振興財団編集『芦屋市谷崎潤一郎記念館資料集 2 雨宮庸蔵宛谷崎潤一郎書簡』芦屋市谷崎潤一郎記念館・共同刊行:芦屋市文化振興財団、1996年(平成8年)10月、p. 35。 </ref>、営業部員は「5万部出せば成功」と考えていたが、結局初回配本は17・8万部となった<ref>『中央公論社の八十年』p. 267。 </ref>第1回配本後の追加注文だけで5万部もあり、多くの追加注文が殺到したために追加注文分の用紙の確保や印刷に手間取り、その結果月1回の配本を予定していたところが、第2回の配本が当初予定していた1939年(昭和14年)2月ではなく2月遅れの1939年(昭和14年)4月になり、第3回の配本は1939年(昭和14年)6月になった。このように多く売れた結果本書は1939年(昭和14年)を代表するベストセラーとなった<ref>塩澤実信『定本ベストセラー昭和史』展望社、2002年(平成14年)7月ISBN 978-4-8854-6091-3 </ref>。またこれによって大きな利益を得た中央公論社について、「年に4回社員に賞与が与えられた。」、「源氏物語に繋がるイメージを持ったゲンジボタルをデザインした社員バッジを新しく作り直して全社員に配付された。」、「税金対策のために三十五万円をつかって雨宮庸蔵を代表とする財団法人「国民学術協会」を設立した。」といった様々なエピソードが伝えられている<ref>「『谷崎源氏』の企画」中央公論社『中央公論社の八十年』中央公論社、1965年(昭和40年)、pp. 260-264。 </ref>。また旧訳が完結した際には当時関西に居住していた谷崎は上京して中央公論社社員の労をねぎらい一同を歌舞伎座に招待した。またこれとは別に「生きている兵隊」による筆禍事件のために1939年(昭和16年)8月に中央公論社を退社してしまっていた雨宮庸蔵を労うため雨宮と装丁を手がけた画家の長野草風を偕楽園に招待している<ref>谷崎潤一郎著芦屋市谷崎潤一郎記念館・芦屋市文化振興財団編集『芦屋市谷崎潤一郎記念館資料集 2 雨宮庸蔵宛谷崎潤一郎書簡』芦屋市谷崎潤一郎記念館・共同刊行:芦屋市文化振興財団、1996年(平成8年)10月、p. 35。 </ref>。谷崎の妻松子によると、当時すでに作家としての地位を確立し、それなりの収入のあった谷崎であるが、美食家であることと引っ越し癖のためにしばしば転居していたことにより谷崎はあまり裕福とは言えない経済状況にあり、さらにこの時期最初の妻千代との間の娘鮎子の学費、二番目の妻丁未子が自立できるようにするための費用、自身の弟妹・三番目の妻松子の妹重子や信子・谷崎が引き取った松子と松子の前夫根津松太郎との子供たちである清治や恵美子の養育費や学費といった収入を遙かに超える多額の出費が重なったために差し押さえを受けることもあるほど苦しかったが、谷崎家の家計はこの谷崎源氏による多額の収入があって以後裕福になり、金銭的に困ることは二度となくなったという<ref>たつみ都志「作家の気構え 『源氏物語』現代語訳・執筆の装置」『潤一郎訳源氏物語考 : 芦屋市谷崎潤一郎記念館2007「源氏物語1000年記念」 2006「残月祭」谷崎生誕120周年記念・瀬戸内寂聴講演「谷崎先生の思い出」』芦屋市谷崎潤一郎記念館、2007年(平成19年)3月、pp. 24-25。 </ref>。
 
新訳についても第三巻までの累計販売部数は25万部にのぼるなど大ベストセラーとなった<ref>朝日新聞1952年(昭和27年)3月15日</ref>。中央公論社社内では、戦後の物資不足や経済的な混乱による売り上げの低迷のため「出来るだけ本は出すな」とまでいわれていた状況が、この新訳が大いに売れたことによって解消することになった<ref>「『細雪』と『源氏物語』の新訳」中央公論社『中央公論社の八十年』中央公論社、1965年(昭和40年)、p. 333。 </ref>また谷崎は、それまで数年間「[[宮本武蔵]]」等のベストセラーで文化人部門の長者番付の一位であった[[吉川英治]]を抜いてその年の文化人部門の[[長者番付]]一位となった。新訳が完結した1954年(昭和29年)11月16日に、谷崎夫妻と中央公論社社長嶋中雄作が、玉上琢弥や榎克朗・宮地裕といった翻訳作業を手伝った若手の学者、口述筆記を手伝った伊吹和子、別巻に収録した隆能源氏の白描画を担当した大河内久男、中央公論社でこの新訳源氏物語の担当者であった滝沢博夫らを招いて京都朝日会館のレストラン・アラスカにおいて晩餐会を行い、その後一同を祇園の茶屋「一力」に招待している<ref>伊吹和子「一力茶屋の夜」『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年』pp. 83-88。 </ref><ref>玉上琢弥「「谷崎源氏」をめぐる思ひ出(下)」大谷女子大学国文学会編『大谷女子大国文』第18号(玉上退職記念号)、大谷女子大学国文学会、1988年(昭和63年)6月、pp. 6。 </ref>。その後出版された挿画入豪華新書版についても第1巻だけで7万5千部突破・第2巻6万5千部突破<ref>挿画入豪華新書版の広告「中央公論」第75巻第1号(通号第865号)、中央公論社、1960年(昭和35年)1月。</ref>、新々訳については初版全巻累計127万8千部・重版を含む累計188万7千800部といった記録が残されている。
 
1999年(平成11年)11月現在での文庫化されている、作家の手になる現代語訳の累計発行部数は以下の通りとなっている<ref>2000年(平成12年)1月9日付け朝日新聞日曜版「名画日本史 源氏物語絵巻」のち朝日新聞日曜版「名画日本史」取材班「源氏物語絵巻」『名画日本史―イメージの1000年王国をゆく 第1巻』朝日新聞社出版局、2000年(平成12年)9月、p. 11。 ISBN 978-4-0225-8670-4 </ref>。