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== 歴史 ==
[[Imageファイル:Hongkong Central 1955.jpg|thumb|220px|left|[[1950年代]]の香港島]]
香港は[[中継貿易]]拠点としてイギリスに植民地化された。しかし、当初の人口は僅かで、[[華人|中国系住民([[華人]]は中国本土から移民として香港に定住した経緯がある。そのため、住民の多数を占める中国系住民は、中国本土の政治運動の影響を受けた中国[[ナショナリズム]]を主張することもあったが、香港住民として政治参加を求める意識は当初、あまり強くなかった。
 
[[1945年]]の[[第二次世界大戦]]の終結に伴い、[[日本軍]]が去った後も、しばらくの間、[[中国国民党]]率いる[[中華民国]]が[[中国大陸]]を統治していた。この時期まで、香港の境界は開放的であり、人の移動も自由であった。しかし、その後[[国共内戦]]が始まると、多くの避難民が本土から流入し始めた。[[1949年]]に[[中国共産党]]が内戦に勝利し、[[中華人民共和国]]が「建国」されると、共産党政府による圧制を嫌い、大量の[[難民]]が香港に流入したため、[[香港政庁]]は中華人民共和国との境界線を閉鎖した。ただし、中国共産党政府は香港の主権回復を求めずではなく、むしろイギリスとの国交回復を求めた。イギリスはこれに応じ、他の西側諸国に先駆けて[[1950年]]に同国を承認した(ただし、。1972年まで両の間で正式な大使樹立せ行われ(1954年以降、相手国に代弁〈[[:en:Charge d'affaires]], [[:zh:外交官#.E4.BB.A3.E5.8A.9E|zh:代辦]]〉を派遣した)、またイギリスは1972年まで[[台湾]]に逃れた中華民国と国交も[[新北市|台北県]][[淡水区|淡水]]に[[領事館]]([[紅毛城]])を維持した
 
この閉じられた領域の中で、時間が経つにつれ、中国系住民に「香港人」としての[[アイデンティティ]]も形成され始める。また、香港に流入した大量の難民は、安い労働力として経済発展の基礎となった。一方、当初、難民は劣悪な生活環境に置かれていたため、香港社会はしばしば不安定化した。[[1956年]]には、[[国共内戦]]に敗れ、[[台湾]]遷都し逃れ[[中国国民党]]政府に近い右派組合による破壊活動が発生した。[[1960年代]]には、中華人民共和国の[[文化大革命]]の影響による政情不安(中国共産党の工作員による工作が原因)と、一部[[紅衛兵]]の流入が発生し、[[1967年]]の香港暴動につながっていく。
 
こうした事態を受け、当時の[[香港政庁]]も社会や政治の安定化に留意する必要が出てきた。そのため、中国系住民華人を扱う華民政務署を民政署(現在の民政事務局)と改称し、社会政策の拡充を図った。[[クロフォード・マレー・マクレホース|マクレホース]][[香港総督|総督]]による地下鉄建設や郊外の開発、9年間の義務教育の実施が始まったのも、この時期である。また、[[1973年]]の警察高官ピーター・F・ゴッドバー警察高官の汚職・逃亡事件が住民の大きな反感を買い、香港政庁は「[[廉政公署]]」(ICAC、独立汚職取締独立委員会)を設置した。さら[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて、部分的な民主化(各層[[議会]]における任命議席の撤廃や縮小と民選化)も始まる。
 
[[Imageファイル:ChrisPatten20050317 CopyrightKaihsuTai.jpg|thumb|170px|right|クリストファー・パッテン]]
そして、[[1992年]]に就任した[[クリストファー・パッテン]]総督は、[[1995年]]に大胆な議会の民選化を実施する。その背景には、[[1989年]]の[[六四天安門事件|天安門事件]]における虐殺行為によって、中華人民共和国に対する香港住民の不信が大きくなったことや、民主化の流れを作ることで、イギリスの影響力を確保する意図があったといわれる。いずれにせよパッテンの政治改革は、中華人民共和国の反感を招いた。
 
[[1997年]]のイギリスから中華人民共和国への[[香港返還|返還]]後、香港の民主制度は一時逆行し、臨時立法会の設置や地方議会での任命議員の復活が行われた。しかし、[[香港特別行政区基本法]]は[[2007年]]以後、行政長官選挙や[[香港特別行政区立法会|立法会]]の完全な民選化の検討を規定している。[[2004年]]の[[表大会]]による基本法解釈は、[[2007年]]および[[2008年]]の普通選挙化を否定した。[[2005年]]、[[香港特別行政区政府|香港政府]]は行政長官選出の民主度を高める提案を行ったが、完全普通選挙を求める民主派の妥協が得られず、否決された。[[2006年]]に入り、[[2012年]]の普通選挙実施が香港政府、民主派など各勢力の間でコンセンサスになっている。3月に結成された[[公民党 (香港)|公民党]]は、[[梁家傑]]立法会議員を行政長官候補に擁立し、[[12月10日]]の[[選挙委員会 (香港)|選挙委員会]]選挙で、正式立候補に必要な100を大幅に超える132の委員を確保した。
 
=== 一国二制度 ===
[[1997年]]のイギリスから中華人民共和国への返還の際、中華人民共和国当局は「'''香港返還後50年間政治体制を変更しない'''」ことを確約した([[一国二制度]])。それにより、[[特別行政区]]が設置され、ミニ[[憲法]]である香港特別行政区基本法の下、高度な自治権を有する。また、[[死刑]]制度も存在しない。ただし、[[外交]]と[[軍事]]は中央政府の管轄であり、[[中華人民共和国外交部|外交部]][[外交部駐香港特派員公署|駐香港専員公署]]と[[人民解放軍]][[人民解放軍駐香港部隊|駐香港部隊]]が設置および派遣されている。ちなみに、香港には[[中国共産党]]の組織は表向き存在しないことになっている。
 
[[Imageファイル:P1030013.JPG|thumb|220px|right|直接選挙と民主化を訴えるデモ]]
基本法において、行政長官および立法機関である立法会(後述)の選出方法は、最終的に直接選挙に移行すると規定されているが、[[2010年]]現在、行政長官は少数(800)のメンバーからなる[[選挙委員会 (香港)|選挙委員会]]により選出される。立法会選挙においても[[直接選挙]]と、職能団体を通した[[間接選挙]]で選出された議席がある。
 
香港基本法付属文書によれば、[[2007年]]及び[[2008年]]に行政長官および立法会の選出方法を直接選挙に移行することが可能なはずであった。しかし、当時の[[建華]]行政長官は任期中に不景気が続いたことや、[[1997年]]の鳥インフルエンザへの対応の不手際、香港大学の世論調査プロジェクトへの介入が露呈したことなどが原因で不人気であったにもかかわらず、[[2002年]]に再選され香港市民の不満が高まった。それに[[2003年]]の[[重症急性呼吸器症候群|SARS]]での不手際、さらに基本法23条に基づく国家治安条例の制定を強行しようとしたことが重なり、ついに50万人が参加したとされる辞任要求[[デモ]]が[[2003年]][[7月1日]]に行われた。これに危機感を持った中華人民共和国当局は、[[2004年]]3月に[[全国人民代表大会]]常務委員会による基本法解釈を行い、[[2007年]]と[[2008年]]の普通直接選挙への移行を否定した。
 
== 政府機構 ==
=== 首長 ===
[[画像ファイル:BowtieTsang2.jpg|200px|right|thumb|[[曽蔭権]]行政長官]]
基本法の規定により、'''[[香港特別行政区行政長官|行政長官]]'''(Chief Executive)(Chief Executive) が置かれる。行政長官は「''''''別行政区の''''''長」という意味で「特首」と略称される。行政長官の諮問機関として14の高官(後述する3司長と11局長)及び15の政府外メンバー(「非官守議員」)からなる行政会議が設置されている。
 
[[1997年]]の返還以来、行政長官を務めてきた[[董建華]]の辞任に伴い、[[政務司司長]]である[[曽蔭権]](ドナルド・ツァン)が行政長官代行を兼任。[[2005年]][[5月26日]]には、曽蔭権が行政長官補欠選挙に立候補するために辞任し、[[財政司司長]]・[[唐英年]]が行政長官代行となる。[[6月16日]]、曽蔭権は796人の選挙委員の内、674人の推挙および40人の支持を取り付け、他に立候補に必要な100人以上の推挙を獲得した者がいないため、次期行政長官に自動当選、[[6月21日]]には[[中華人民共和国国務院|国務院]]より任命を受け、正式に就任した。ただし、曽蔭権の行政長官としての曽蔭権の任期は董建華の残り任期である2年のみである。
 
=== 行政会議 ===
[[Imageファイル:GH facade.JPG|thumb|220px|right|ガバメント・ハウス(礼賓府)]]
[[行政会議 (香港)|行政会議]] (Executive Council) は、[[日本]]の[[閣議]]に相当する。ただし、行政長官の諮問機関であり、行政府の議決機関ではない。行政長官を議長とし、3司長、11局長(三司十一局)からなる官方議員と、それ以外の非官方議員から構成される。
 
=== 3司長 ===
行政長官の下に3司長が置かれている。外遊等何らかの原因で行政長官がその職務を行うことができないときには、以下の順位に従い3司長のいずれかがその職務を代行する。
* [[政務司司長]] (Chief Secretary for Administration) :政策全般の制定と実施について行政長官を補佐する。司長の筆頭であるため、英文名称にはChiefが付加されている。行政長官に次ぐ香港政府のNo.ナンバー2である。
* [[財政司司長]] (Financial Secretary) :財政、金融、経済、貿易および就業に関する政策の制定と実施について行政長官を補助し、財政予算案を制定する。
* [[律政司司長]] (Secretary for Justice) :検察機構である[[律政司]]を率い、行政長官の法律顧問を兼ねる。
 
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現在、各分野における政策の制定する「'''決策局'''」が設置されている。各政策局の長として局長が置かれる。局長の英文名称は、司長と同じSecretaryである。[[2010年]]現在において、以下の11局が置かれている。なお、[[2007年]]7月に局が再編され、12局となる予定である。
 
複数の業務を担当する局の場合には、内部組織として'''科'''が設けられることもある。その場合、局長を補佐する常任秘書長が科の責任者となる。また、科が設置されていない局にも複数の常任秘書長がいることがある。
 
* 工商及科技局:'''工商科'''(通商政策、中小企業対策、知的財産権などを担当)と'''通訊及科技科'''(ハイテク産業育成、メディア行政を担当)が置かれる。常任秘書長は2人。
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=== 政治任命制度の改革 ===
[[2002年]]7月より「[[主要官員問責制]]」(以下、問責制)が導入された。これは、3司長および局長を(身分保障のある)公務員からの昇格ではなく、行政長官の[[政治任用制|政治任用]]に改め、政治責任を負わせる制度であり、事実上の閣僚制とも言える。公務員が局長や司長に就任するには、原則として公務員を退職しなければならない(公務員事務局長を除く)。
 
これに合わせて、局は従来の16から11に再編された。導入前の「局長」、つまり公務員の最上位は常任秘書長 (Permanent Secretary) と改名され、新しい局長の下に位置することになった。そのため、1つの局が異なる分野を管轄することになり、旧局の組織がそのまま新局の下部組織である「科」に移行した例が多い。また、局の再編については、サービス産業政策と労働政策、あるいは環境政策と建設政策のように、立場や指名の衝突しやすい分野を同一局が管轄することになり、チェックアンドバランスが働きにくくなるとの懸念もある。
 
[[Imageファイル:Ansonchan.jpg|thumb|220px|right|[[陳方安生]](アンソン・チャン)]]
問責制は本来、司長および局長の「責任を問う」制度である。しかし、立法会に対しては責任を負わず、任命者である行政長官のみに責任を負っている。実質的な違いは、司長の権限を弱体化することだと言われた。従来の局長は政務司司長や財政司司長に責任を負っており、そのため、[[陳方安生]](アンソン・チャン)元政務司長のように行政長官と対立し、牽制した例もあったからである。
 
[[2006年]]、香港政府は政治任を拡大し、副局長ポストを増設することを検討すると発表した。局長の業務が重く、それを軽減するというのが理由である。ただし副司長の設置は除外するとしている。
 
=== 執行部門 ===
決策局の下には、政策実行を担う「部門」(「署」もしくは「処」と呼ばれる)が置かれている。「部門」の長は管轄の局長に責任を負う。ただし、廉政公署(独立汚職取締独立委員会)や申訴專員公署(オンブズマン事務局)など一部の「部門」は直接、行政長官に責任を負っている。
 
== 議会 ==
[[Imageファイル:HK Chater Road LegCo view.jpg|thumb|220px|right|香港特別行政区立法会大樓]]
60議席の[[香港特別行政区立法会|立法会]](Legislative Council)((Legislative Council) (議長:[[范徐麗泰]])が設置されている。議員の選出方法は直接選挙および職能団体選挙それぞれ30議席となっている([[2004年]]9月の第3回選挙現在)。任期は4年である。
 
また、各区には区議会が設置されている。区議会には法令を制定する権限はなく、諮問機関として位置付けられている。民選、委任(任命)および当然(兼職)議員によって構成される。当初の英文名称はDistrict Boardであった。[[1999年]]の[[市政局]]・[[区域市政局]]の廃止後、区議会の英文名称はDistrict Councilへと変更された。
 
[[市政局]]([[1883年]]設置)・[[区域市政局]]([[1986年]]設置)も諮詢機関であり、区議会の上位にある事実上の地方議会であった。なお、これに対応する執行機関はなく、政府が任命する民政事務専員が主催する地区管理委員会が設けられているにぎなかった。区議会の正副主席も同委員会の委員となり、政府の各部門との意見交換が行われていた。両局が廃止された表向きの理由は、[[インフルエンザ]]流行時の反省から両局が管轄する衛生行政を[[香港政府]]本体に統合することとされた。
 
さら[[新界原居民]]による議会組織として[[郷議局]]、及びその下部組織として[[郷事委員会]]もある。郷議局は郷事委員会の互選により選出される。なお、[[2000年]]に終審法院がその選挙法が差別的だとの判断を[[香港終審法院|終審法院]]が下したため、[[2003年]]以降は一般住民の「村代表」(郷事委員会の構成員)も選出されることになった。
 
この他、中華人民共和国の[[全国人民代表大会]]と[[人民政治協商会議]]全国委員会にも、香港特別行政区から[[香港特別行政区全国人民代表大会代表|代表]]と[[全国政治協商会議香港地区委員|委員]]が選出されている。しかし、間接制限選挙よってのみ選出されているため、代表性は乏しい。
 
== 政党 ==
[[Imageファイル:Banner of Election Committee Subsector Elections 2006 (1).JPG|thumb|220px|right|投票を呼びける広告]]
香港の主な政党には、[[民主建港協進聯盟]]([[香港左派|親中左派]])、[[自由党 (香港)|自由党]](親財界)、[[民主党 (香港)|民主党]]、[[公民党 (香港)|公民党]]、[[社会民主連線]](以上、[[香港民主派|民主派]])などがある。董建華政権においては、民主建港聯盟と自由党が事実上の与党となり、司長もしくは局長を含む、行政会議メンバーを輩出した。しかし曽蔭権政権は民主派へ接近する姿勢を見せ、両党との関係に溝が生じ始めている。民主党と公民党は普通選挙の実施を求める民主派である。
 
香港では政党法が無いため、多くの政党が会社法(公司法)に基づいて登記している。香港の会社法は、組織構成員について過去に遡って公表することを要求している。しかし中華人民共和国の中央政府と関係が良くない民主派の政党にとっては、その党員名簿を公表すれば、中華人民共和国本土で不利な扱いを受ける恐れもあり、深刻な問題になる可能性もある。そのため特に中華人民共和国の中央政府との関係が悪い民主党は党員名簿を公開していない。
 
なお政党には社会団体として登録する道もあり、過去にはそうした政党もあった。だが、[[黒社会]](暴力団]]などによる悪用を防ぐため、社会団体の集会には[[香港の警察|警察]]が参加し、監視することが可能である。特に公民党が香港における政党制度の不備を指摘し、政党法の制定する必要性を説き始めている。
 
== 脚注 ==