「アウグスト3世 (ポーランド王)」の版間の差分

[[1740年]]、カール6世の死去によって[[ハプスブルク家]]の男子が絶えると、[[マリア・テレジア]]の家督相続を巡って[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。アウグスト3世はカール6世の兄[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]を妃としていたため、マリア・テレジアの支持を表明しながらも、ハプスブルク家領であったベーメン([[ボヘミア王国|ボヘミア]])の継承を主張してベーメンに侵攻した。しかし結局、和平交渉の後に撤退を余儀なくされた。その後、ハプスブルク家領であった[[シレジア|シュレージエン]]の領有を巡る[[プロイセン王国|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の進撃を阻止するため、ザクセン軍を率いてオーストリア軍と共にプロイセン軍と戦ったが敗北し、アウグスト3世にとっての戦争は終結した。
 
[[File:OgrodSaskiStary.jpg|thumb|right|400px|1765年当時のサスキ宮殿(ワルシャワ)。<br>宮殿の建物はその後次々と拡張され壮大な宮殿となっていった。<br>[[ポーランド分割]]後の19世紀には旧制ワルシャワ第1中学校(リセ)の校舎として使用され、作曲家の[[ショパン]]の父親[[フランス語]]教師としてここで教鞭をとっていた。<br>1930年代にはポーランド軍の研究所として使用され[[エニグマ (暗号機)|ドイツの暗号機エニグマ]]がここの研究室ではじめて解読された。<br>[[第二次世界大戦]]ではこのドイツ・ポーランド友好の記念碑的なサスキ宮殿を好ましく思わない[[ナチス・ドイツ]]によって徹底的に破壊されてしまった。<br>現在は広大な「サスキ公園」となっており、ワルシャワ市民の憩いの場となっている。<br>宮殿の復元事業の見通しは立っていないが、将来の事業実現の可能性も見込んで基礎部分の発掘調査が行われている。]]
アウグスト3世の晩年、[[1756年]]に[[七年戦争]]が勃発するが、ザクセンにもポーランドにも、もはやこれに対抗しうる国力はなかった。ザクセンは真っ先にプロイセンに占領され、アウグスト3世は宮廷をポーランドの首都[[ワルシャワ]]のサスキ宮殿(ザクセン宮殿)に避難させた<ref name="arisaka">{{cite journal|和書|author=[[有坂純]]|year=2004|month=4|title=フリードリヒ大王の七年戦争|journal=歴史群像|pages=p. 70|publisher=[[学習研究社]] }}</ref>。ワルシャワのこの宮殿は[[マグナート]]の[[モルシュティン家]]の大宮殿(モルシュティン家宮殿)を[[ヴェッティン家]]のアウグスト(のちのポーランド王[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]で、アウグスト3世の父)が私的に買い上げ、さらに規模を拡張したもので、サスカ人(ザクセン人)たち(アウグスト2世・3世親子)が所有していることから「サスキ宮殿」(サスカ人の宮殿、「サスキ」はサスカ人の複数形)と呼ばれるようになったものである。またポーランドは、プロイセンへ進撃するロシア軍の通り道にしかならなかった。ザクセンは帝国領であるが故に致命的な損失を免れたが、ポーランドでは国力の低下や王権の一層の弱体化、国家主権の衰退などを露呈させる結果となった。 
 
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