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'''テオドロス2世パレオロゴス'''('''{{lang|el|Θεόδωρος Β' Παλαιολόγος}}''', ローマ字転写:Theodoros II Palaiologos, [[1399年]]頃 - [[1448年]][[6月27日]])は[[東ローマ帝国]]地方統治者、[[モレアス専制公領|モレアス専制公]](在任: [[1407年]][[6月24日]] - [[1443年]]3月)、帝位継承候補・[[トラキア]]沿岸地方統治者(1443年3月 - 1448年6月1日)。[[マヌエル2世パレオロゴス]]帝と皇后ヘレネ・ドラガシュの次子。中世[[ギリシア語]]表記では'''セオドロス2世パレオロゴス'''。
 
[[1403年]]に[[コンスタンティノポリス]]を訪問した[[カスティリャ王国]]の使節[[{{仮リンク|ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホ]]|en|Ruy Gonzáles de Clavijo}}<ref>クラヴィホの旅行記『遥かなるサマルカンド』リュシアン・ケーレン編、杉山正樹訳注、[[原書房]]に詳しい。</ref> はマヌエル2世に謁見しているが、その際、同席した皇后が皇太子ヨハネスと、年少の弟二人を伴っていた事を記している。その一人がテオドロス2世であった。
 
1407年、同名の叔父[[テオドロス1世パレオロゴス]]の死去に伴い幼少ながらモレアス専制公に就任する。しかし無論実際上の統治は不可能であったので、[[1415年]]には父マヌエルが、[[1416年]]から[[1417年]]にかけては兄[[ヨハネス8世パレオロゴス]]が、それぞれ[[ペロポネソス半島]]を訪問して統治を手助けしている。また、マヌエル2世は息子の助言役として高名な学者[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]](プリソン)を指名し、プレトンはこれに応えてモレアス専制公領再建の為の『建白書』を提出した。これはあまり実行に移されなかったものの、テオドロスは彼の尽力に好意を持ちいくつかの特権贈与でこれに報いた。