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[[16世紀]]初頭に中央アジアから南下してきたティムール朝の王子[[バーブル]]がカーブルを本拠地とする政権を樹立するとカンダハールもその支配下に加えられ、バーブルの興した[[ムガル帝国]]の一部となった。バーブルが死ぬと、カーブルを継承した次男[[カームラーン・ミールザー]]の支配下に入り、インドを支配する長男[[フマーユーン]]との間で争奪され、これに西のイランを支配する[[サファヴィー朝]]が介入した。ムガル帝国を再統一したフマーユーンの子[[アクバル]]以来、カンダハールはムガル帝国とサファヴィー朝の間で激しい争奪戦が繰り広げられる最前線となり、[[1558年]]にサファヴィー朝が奪取、[[1594年]]にムガル帝国が奪還した。[[1621年]]になってサファヴィー朝の[[アッバース1世]]がカンダハールを占領したが、[[1638年]]にはカンダハール総督のアリー・マルダーン・ハーンがサファヴィー朝に反逆してムガル帝国に下り、再度ムガル帝国の統治下に入った。これをサファヴィー朝が[[1649年]]に軍事力によって奪回し、その後幾度かムガル帝国の軍を撃破してサファヴィー朝の支配が続く。
[[18世紀]]初頭、サファヴィー朝の支配力の衰退が著しくなると、この地方に居住するパシュトゥーン人の[[ギルザイ]]部族に属する
[[1747年]]にナーディル・シャーが暗殺されるとアフシャール朝の勢力は後退し、かわってナーディルに仕えていたパシュトゥーン人の将軍[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]がこの地方の支配権を握った。アフマド・シャーは、放棄されたカンダハール旧市から東に5km離れた位置に新たな城塞都市を築き、自らが樹立した[[ドゥッラーニー朝]]の首都に定めた。新カンダハール市は、[[18世紀]]末にカーブルに移るまでドゥッラーニー朝の首都として使われた。
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