「極楽寺 (鎌倉市)」の版間の差分

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極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない[[建治]]元年([[1275年]])に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。
 
 
=== 荒廃と復興 ===
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* 木造[[釈迦如来]]立像 - 極楽寺の本尊。台座内に[[永仁]]5年([[1297年]])の銘がある。京都・[[清凉寺]]の「三国伝来の霊像」と称される釈迦像を模した「清凉寺式釈迦如来像」と呼ばれる様式の像である。縄目状の頭髪や、胸部を露出せずに首のあたりまで被う衣の付け方、同心円状の衣文などに特色がある。秘仏で4月7日~9日のみ開扉される。
* 木造十大弟子立像 10躯 - [[文永]]5年([[1268年]])の銘がある。
* 木造釈迦如来坐像 - [[鎌倉時代]]、[[仏師]][[善慶]]の作とされるが、息子の[[善春]]の作とする説もある。両手を胸前に挙げ転法輪印([[説法印]])を結ぶ、図像的に珍しい釈迦像で、変化に富んだ衣文や理知的な表情に時代の特色が現れている。近世の史料に本像は[[仏師]][[善慶]]の作とあるが、善慶の銘のある兵庫県正福寺の薬師如来坐像とは作風が異なること、忍性が極楽寺に入寺したのは善慶の没後であることなどから、本像は善慶でなく息子の[[善春]]の作とする説もある<ref>特別展図録『鎌倉時代の彫刻』、東京国立博物館、1975</ref>
* 木造[[不動明王]]坐像 - 寺の創建より古い[[平安時代]]末期の作。本来極楽寺にあった像ではなく、島根県の勝達寺から大正5年([[1916年]])に移されたもの。
* 密教法具([[五鈷鈴]]、[[五鈷杵]]、[[独鈷杵]]) - 五鈷鈴に建長7年([[1255年]])の銘がある。