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=== 梨本宮守正王 ===
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3代'''守正王'''は、[[1874年]](明治8年)の誕生。[[1900年]](明治33年)に[[侯爵]][[鍋島直大]]の二女[[梨本伊都子|伊都子]]と結婚し、'''[[李方子|方子女王]]'''、'''[[広橋規子|規子女王]]'''をもうけた。[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任した。[[1943年]](昭和18年)、[[伊勢神宮]][[祭主]]に就任する。[[戦後]]、[[皇族]]唯一の[[戦争犯罪]]人に指定されて[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に拘置されるが、半年後に釈放されて帰邸したところ、集団窃盗によって家財の多くが盗難にあっていたという。[[1945年]](昭和20年)、[[皇典講究所]]第6代総裁就任。[[1947年]]([[昭和]]22年)GHQの指令により10月14日[[臣籍降下|皇籍離脱]]し、[[1951年]](昭和26年)、78歳で逝去。
 
'''[[梨本伊都子|伊都子妃]]'''は、[[守正王]]亡き後も「最後の貴婦人」として振舞い、規子女王の二男'''[[広橋儀光]]'''、次いで[[久邇宮]][[多嘉王]]の三男'''[[龍田徳彦]]'''を養子に迎え、徳彦が梨本家を継承した後[[1976年]](昭和51年)に逝去した。[[日記]]をつけるのを日課にしており、死後「梨本宮妃伊都子の日記」として出版されている。