「パークナム事件」の版間の差分

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==事件==
[[1893年]][[7月13日]]夕方18時15分、フランス海軍は2隻の軍艦、[[通報艦]]「インコンスタン(Inconstant)」と[[砲艦]]「コメート(Comete)」で[[チャオプラヤー川]]の[[ワット・アルンラーチャワラーラーム|ワット・アルン]]と{{仮リンク|ワット・カラヤナミトル|en|Wat Kalayanamitr}}の間にある運河河口から上流へ進入しようとした。天候は雲の厚い雨天であった。フランス海軍はこのときタイの官警から警告を受けたが無視して侵入を開始した。
フランス海軍の軍艦にはとても歯が立たなかった。パークナムに国防であり、タイ軍は地雷と備え付けの大砲と軍艦で攻撃しても、フランス軍艦を食い止めない。結果は発砲の軍艦6隻が目標からそれて、地雷16発は1発が使えて、大砲7問は目標をはずれた。[[1893年]][[7月13日]]夕方、フランス海軍は2隻の軍艦、[[通報艦]]「インコンスタン(Inconstant)」と[[砲艦]]「コメート(Comete)」で[[チャオプラヤー川]]の河口から上流へ進入しようとした。フランス海軍はこのときタイの官警から警告を受けたが無視した。現在の[[サムットプラーカーン]](河口にあるため俗に、パークナム(河口)と呼ばれる)へまで進むと、タイ軍は備え付けの大砲と軍艦で攻撃したが、近代的軍備のフランス海軍の軍艦には歯が立たなかった。一方、軍艦2隻は10時頃までに[[バンコク]]、チャオプラヤー川東岸にある[[フランス大使館 (バンコク)|フランス大使館]]へ着くとタイ政府に「メコン川東岸のフランスへの割譲」を求めた。これは国家存続を揺るがす大きな問題とタイ政府は認識した。当時のタイの君主であった[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)は割譲を拒み、賠償金で済ませようとして、フランスとインドシナ問題において対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと試みたが失敗。結局、メコン川西岸全域を割譲する事になったが、ラーマ5世はこれを「死刑を待つ死刑囚の様な悲しみ」と表現し寝込んでしまった。一方、バンコク都民はこの異常事態において混乱を極め、フランス軍の発砲を恐れて逃げ回った。
 
18時30分、雨がやんだ。この時、[[灯台]]をフランス軍艦が通り過ぎる姿をタイ兵が確認している。数分後、フランス軍艦は要塞の射程圏に補足され戦闘が開始された。タイ軍はオランダ人司令官が指揮する{{仮リンク|パークナム|en|Wat Paknam Bhasicharoen}}に最近作られた Chulachomklao 要塞と、デンマーク人副提督{{仮リンク|Phraya Chonlayutthayothin|en|Andreas du Plessis de Richelieu}}が率いるタイ海軍の軍艦で応戦した。要塞には旧式の{{仮リンク|6インチ砲|en|Disappearing gun}}が備えられていた。また16個の[[機雷]]を敷設していた。タイ軍は指揮系統が西洋化されていたものの、近代的軍備のフランス海軍の軍艦には歯が立たなかった。10時頃までに軍艦2隻が[[フランス大使館 (バンコク)|フランス大使館]]へ着くと、フランスはタイ政府に「メコン川東岸のフランスへの割譲」を求めた。
==その後==
 
[[Image:OccupationOfTrat1904.jpg|thumb|left|1904年条約の調印後トラートを占領するフランス軍]][[1893年]]10月、フランスは平和条約の締結を迫った。この条約においては、
==事件の処理==
これは国家存続を揺るがす大きな問題とタイ政府は認識した。当時のタイの君主であった[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)は割譲を拒み、賠償金で済ませようとして、フランスとインドシナ問題において対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと試みたが失敗。結局、メコン川東岸全域をフランスへ割譲する事になった。ラーマ5世はこれを「死刑を待つ死刑囚の様な悲しみ」と表現し寝込んでしまった。一方、バンコク都民はこの異常事態において混乱を極め、フランス軍の発砲を恐れて逃げ回った。
 
[[Image:OccupationOfTrat1904.jpg|thumb|left|1904年条約の調印後トラートを占領するフランス軍]][[1893年]]10月、フランスは平和条約の締結を迫った。この条約においては、
[[1893年]]10月、フランスは平和条約の締結を迫った。この条約においては、
 
*メコン川東岸のラオス各王国の宗主権の完全放棄