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{{湖沼|洪沢湖||[[中国]]| 1,600| ..| 4.5| 1.9| 3,000| ..|..|淡水|..|..}}
{{中華圏の事物
'''洪沢湖'''(こうたくこ、{{簡体字|洪泽湖}}、{{繁体字|洪澤湖}}、{{ピン音|Hóngzé Hú}}、Lake Hongze)は[[中華人民共和国]][[江蘇省]]北西部にある大きな[[淡水湖]]。中国で面積第四位の淡水湖で、[[淮河]]の中流にある。[[鄱陽湖]]、[[洞庭湖]]、[[太湖]]に次ぎ、[[巣湖]]よりも大きい。湖の北から西にかけては[[宿遷市]]が、南から東にかけては[[淮安市]]が広がる。
|タイトル=洪沢湖
|英文=Lake Hongze
|簡体字=洪泽湖
|繁体字=洪澤湖
|ピン音=Hóngzé Hú
|通用 =
|注音符号=
|カタカナ=ホンズー フー
}}
 
'''洪沢湖'''(こうたく-、{{簡体字|洪泽湖}}、{{繁体字|洪澤湖}}、{{ピン音|Hóngzé Hú}}、Lake Hongze)は[[中華人民共和国]][[江蘇省]]北西部、[[淮河]]の中流位置す大きな[[淡水湖]]。中国における面積第4位の淡水湖で、[[淮河]]の中流にる。[[鄱陽湖]]、[[洞庭湖]]、[[太湖]]に次ぎ、[[巣湖]]よりも大きい。湖の北から西にかけては[[宿遷市]]が、南から東にかけては[[淮安市]]が広がる。
 
洪沢湖の場所には、もともとは今よりも小さな湖である富陵湖や白水塘などがあったが、[[12世紀]]に[[黄河]]が南へ流れを変えた際に淮河が[[黄海]]へ出る河道を奪われ、行き場を失った水が洪沢湖の場所に溜まってしまった。これによって湖の面積は四倍になり多くの町や村が水没した。洪沢湖からあふれた水は東へ南へと迷走し、高郵湖、邵伯湖といった湖を作り[[長江]]へ流れるようになった。
 
淮河と洪沢湖の治水は古代からの中華王朝の課題であった。[[後漢]]の建安5年([[200年]])に高家堰という長さ30里の堤防がこの周辺にできた。[[明|明代]]には淮河や黄河の氾濫で歴代の[[漕運総督]]は洪沢湖の治水に力を入れ、高家堰をもとに洪沢湖大堤を大きくしていった。特に漕運総督潘季馴は大堤を延長して現在の基本を造り、清中期までに現在見るような長さ60里の石造の洪沢湖大堤が出来上がった。この堤防は[[中華人民共和国全国重点文物保護単位]]にも指定されている。
 
[[1951年]]から[[1952年]]にかけて、[[毛沢東]]の指令により淮安市[[洪沢県]]から[[塩城市]][[浜海県]]までを結ぶ蘇北灌漑総渠という放水路が作られた。洪沢湖から黄海への水路が復活し、これにより淮河の治水と江蘇省北部の灌漑という二つの目的が達せられた。