「井上氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
4行目:
[[尊卑分脈]]によると[[清和源氏]][[源頼季|頼季流]]とされる。[[多田満仲]]の子[[源頼信]]が[[長元]]元年([[1028年]])の[[平忠常の乱]]を平定して東国に勢力を扶植、さらに二男の頼季が嫡男[[源満実]]とともに[[信濃国]][[高井郡]]井上を[[本貫]]として井上氏の祖となったとしている。
 
源平の戦いとして知られる[[治承・寿永の乱]]では同族とされる[[村山氏]]が[[村上氏]]の支族とされる[[栗田氏]]と共に[[市原合戦]]で戦ったのをはじめ、北信濃の源氏方として平家方と戦いを繰り広げ、[[平家物語]]では[[保科氏|保科党]]を率いる[[井上光盛]]が[[横田河原の戦い]]で[[源義仲]]方として参陣して活躍し、信濃源氏の代表格として扱われている。その後は義仲の上洛には従軍せずに[[源頼朝]]に従った様だが、甲斐源氏[[一条忠頼]]と共に頼朝に危険視された光盛は、[[元暦]]元年([[1184年]])7月に[[駿河国]]蒲原駅で誅殺される。
 
戦功のあった光盛が誅殺され、更に[[文永]]5年([[1268年]])には[[井上盛長]]が[[善光寺]]を焼き払い誅殺された記録が尊卑文脈所載の井上系図にあり、井上氏は近隣の[[村上氏]]や同族とされる[[高梨氏]]に比して総領家を中核とする武士団の形成が大きく遅れたとされる。また盛長の誅殺以後、井上一族では仏門に入る者が多く、武士団としての発展が阻害されたとする向きもある。