「生野山の戦い」の版間の差分

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一方で[[武田信玄]]と4度目の[[川中島の戦い]]を繰り広げていた政虎は、[[越後国]]へ帰国後すぐに松山城救援の軍を差し向けた。なお、この上杉軍を政虎自らが率いていたかは不明である。北条軍は、この松山城の後詰めの上杉軍を、城に程近い生野山で迎え撃ち、野戦に及んだ。その結果、北条軍が勝利(小幡氏文書)。上杉軍は下野方面へ撤退し、その後は唐沢山城へ陣を進めた(歴代古案)。しかし後詰めの上杉軍は撤退したものの、北条軍はこの時は松山城を陥落させるに至らず。これ以降も氏康は信玄と同盟し、一方で謙信は[[里見義堯]]と同盟して関東の覇権を巡って熾烈な攻防を続けることになる。
 
== 参考文献 ==
* 内閣文庫所蔵・小幡家文書
* 出雲桜井文書
* 相州文書
 
== 関連項目 ==
*[[日本史の出来事一覧]]
*[[日本の合戦一覧]]
 
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[[Category:関東地方埼玉県の歴史]]
[[Category:本庄市の歴史]]
[[Category:美里町 (埼玉県)]]
[[Category:武蔵国|戦なまのやまのたたかい]]
[[Category:後北条氏|戦なまの]]
[[Category:室町時代の戦い|なまのやまのたたかい]]
 
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[[Category:室町時代の戦い|なまのやまのたたかい]]
 
== 参考文献 ==
* 内閣文庫所蔵・小幡家文書
* 出雲桜井文書
* 相州文書