「溝口宣直」の版間の差分

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[[1628年]]、父の死により家督を継ぐ。このとき、弟の[[溝口宣秋|宣秋]]に6000石、[[溝口宣俊|宣俊]]に5000石、[[溝口宣知|宣知]]に4500石を分与したため、新発田藩の所領は5万石となった。宣直は幕府に対して[[江戸城]]の石垣普請などで活躍した。[[1633年]]には[[阿賀野川]]の決壊により藩を挙げて対応するという非常事態も起こった。その後も[[徳川家光]]の上洛随行、[[島原の乱]]のときの江戸城守備、[[加藤明成]]改易のときの[[会津若松城|若松城]]在番、さらに[[下館城]]在番、[[大坂城]]番や、[[勅使]][[饗応役]]などを務めている。なお、現在も残る[[清水園]]の基礎となる清水谷御殿を築き上げたのは、この宣直の時代である。しかし、藩内では大洪水や大火事が起こり、江戸でも有名な[[振袖火事]]が起こって多額の支出を被った。これに対して[[新発田川]]の治水工事を行なうことで解決を試み、いくらかは成功を収めたが、やはり財政難に陥った。
 
[[1672年]]9月7日、長男・重雄に家督を譲って隠居し、1676年11月22日に江戸において72歳で死去した。[[江戸]]([[台東区]]竜泉)の[[正燈寺]]の[[開基]]でもある。法号は禅林未歇寒光院(寒光院殿前雲州大守禅林未歇大居士とも)。墓所は[[江戸]]駒込[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]。
 
{{新発田藩主|3代|1628年 - 1672年}}