「蕭排押」の版間の差分

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13年([[995年]])、北院宣徽使・南院宣徽使を歴任した。[[聖宗 (遼)|聖宗]]にときの政治の利害から賦役の法にいたる意見を上書し、聖宗に聞き入れられた。15年([[997年]])、政事令の位を加えられ、[[東京遼陽府|東京]][[留守官|留守]]に転じた。22年([[1004年]])、再び北宋を攻撃し、[[渤海 (国)|渤海]]軍を率いて、徳清軍を落とした。北宋の魏府の官吏である田逢吉・郭守栄・常顕・劉綽らを捕らえた。[[蕭撻凜]]が死去すると、南面の行政を専任とした。[[セン淵の盟|北宋とのあいだに和議]]が成立すると、北府宰相となった。排押の統治は穏健で寛容であり、当時の人の多数に支持された。
 
28年([[1010年]])、聖宗が[[契丹の高麗侵攻]]に遠征すると、排押は都統となり、兵を率いて北道から進攻して、[[開京]]の西嶺で高麗軍を撃破した。[[顕宗 (高麗王)|高麗王詢]]は開京を放棄して平州に逃亡した。排押は開京に入城して、大規模な略奪をおこなった。帰国すると、蘭陵郡王に封じられた。[[開泰 (遼)|開泰]]2年([[1013年]])、宰相のまま西南面招討使となった。5年([[1016年]])、東平王に進んだ。
 
7年([[1018年]])、再び都統として高麗に遠征して開京まで到達したが、帰還の途中に茶河・陀河を渡ろうとして、高麗軍の挟射に遭った。排押は武器防具を棄てて敗走した。8年([[1019年]])、帰国すると敗戦の罪を問われて免官された。