「ヒ船団」の版間の差分

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「ヒ船団」の名の由来は定かではないが、航路沿線であるヒリッピン(フィリピン)の頭文字とする説、「[[日本の国旗|日の丸]]」の読みの頭文字とする説<ref name="iwa80">岩重(2011年)、80頁。</ref>などがある。
 
個々のヒ船団には、往路(シンガポール行き)の便に奇数、復路(日本行き)の便に偶数の番号が順次割り当てられた。したがって、往路の第1便がヒ01船団、復路の第1便はヒ02船団となる。ヒ88船団など梯団に分割された場合は、ヒ88A船団から[[ヒ88J船団]]のように梯団ごとのアルファベットも追加されている。おおむね番号順に運航されているが、中止により欠番になった船団や、実際の運航順とは前後している船団もある。
 
なお、日本の護送船団の呼称として、[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]管轄海域では航路ごとに割り当てられた一定範囲の番号呼称(例:[[北九州港|門司]]発・[[高雄市|高雄]]行きは第101船団-第199船団)を循環使用する方式が大戦前半から広く用いられていた。{{和暦|1944}}2月頃からは、出発地と目的地の読みの頭文字に番号を組み合わせた「[[マタ30船団]]」(マニラ発・高雄行きの30番目の船団)のような方式も用いられている<ref name="iwa70">岩重(2011年)、70頁。</ref>。[[海上護衛隊#第二海上護衛隊|第二海上護衛隊]]管轄海域では、航路ごとの符号(数字かカタカナ1字)に出航日と加入輸送船数を組みあわせた4桁数字ないしカタカナ1+3桁数字の船団名(例:[[オ112船団]])や、航路符号に出航月日を組み合わせて4桁数字とした船団名(例:[[第3530船団]])であった<ref>岩重(2011年)、71頁。</ref>。[[ボルネオ島]][[ミリ (サラワク州)|ミリ]]航路の石油輸送船団である「[[ミ船団]]」(例:[[ミ27船団]])や[[鉄鉱石]]輸送専用の「テ船団」(例:[[テ04船団]])、軍隊の作戦輸送である「[[松輸送]]」(例:東松1号船団)・「竹輸送」(例:[[竹一船団]])といった特殊な命名方式もある。
 
== 日本の戦時石油事情 ==
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=== 大船団主義の採用 ===
1944年2月にヒ40船団の全滅などを経験した日本海軍は、海上護衛総司令部の発案にもとづいて、ヒ船団の運用方針を大船団主義に転換した<ref name="sosyo343344" />。これは、船団の運航頻度を減らして1個の船団の規模を大型化することで、護衛艦艇の集中を図る戦術であった。1隻だけの護衛艦の無力さが明らかになり、特にアメリカ海軍潜水艦が[[群狼作戦]]を採用しつつあることからも、1個の船団に複数の護衛艦が必要と認識されたのであった。既述のように本来のヒ船団は石油輸送用の高速船団であったが、フィリピン行きの増援部隊を積んだ[[軍隊輸送船]]も途中まで同行することが多くなり、これも船団の大規模化につながった。
 
大船団主義の本格採用と合わせ、1944年4月には石油輸送船団の速度別の再編が実施された。船団速力13[[ノット]]以上を高速ヒ船団(ヒA船団)、船団速力9-12ノットを中速ヒ船団(ヒB船団)とし、それ以下の低速船団としてシンガポールより日本に近いボルネオ島[[ミリ (サラワク州)|ミリ]]行きの[[ミ船団]]が創設された。ヒA船団は従前目標通りの門司=シンガポール直行便を建前とする一方、中速のヒB船団は高雄に途中寄港する運用へと変わった<ref>防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』、352頁。</ref>。
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護衛強化策としては、量産が軌道に乗った海防艦が次々とヒ船団用に投入された。1944年1月から試験されていた船団護衛への[[航空母艦|空母]]使用も、護衛空母搭載用の[[第九三一海軍航空隊|第931海軍航空隊]]を同年2月に創設、同年4月のヒ57船団から本格運用に移された。船団護衛への空母使用は、[[上陸戦|上陸作戦]]時などの例外を除けば、日本ではヒ船団のみで行われた<ref>防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』、311頁。</ref>。空母から哨戒機を飛ばすことで、敵潜水艦の探知能力を強化する目的であった<ref>岩重(2011年)、82頁。</ref>。兵力の増加した護衛部隊の指揮統制のため、特設船団司令部の制度も創設された{{#tag:ref|本来は[[マリアナ諸島]]方面の増援部隊護送船団である[[松輸送]]用に考案された制度であったが、[[竹一船団|竹輸送]]やヒ船団の指揮にも用いられた<ref>防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』、321-322頁。</ref>。なお、臨時護衛船団司令部と呼ぶ文献もある<ref name="ooi233234">大井(2001年)、233-234頁。</ref>。|group="注釈"}}。特設船団司令部は直接の戦闘兵力を持たない司令官の[[少将]]以下人員若干のみの組織で、船団編成時に集められた護衛艦艇を臨時に指揮することになったが、司令部専属の[[参謀]]もいない態勢で、寄せ集めの護衛部隊を有効に統制することは困難であった<ref name="ooi233234" />。その後、1944年11月、司令部だけでなく固有の戦闘艦艇を有する初の護衛専門[[戦隊]]として、第101戦隊([[軽巡洋艦|軽巡]]1隻・海防艦6隻)が編成されている<ref>大井(2001年)、360-362頁。</ref>。同年12月には、第一海上護衛隊が[[#|第一護衛艦隊]]へと格上げされた。
 
こうした大船団主義の下で、ヒ船団の規模は輸送船10隻程度に護衛艦5隻以上となった。最大級の事例は、空母3隻を含む輸送艦船17隻と護衛艦艇10隻で構成されたヒ69船団<ref group="注釈">輸送艦船は大型タンカー7隻のほか、航空機運搬任務の空母2隻、その他貨物船など8隻。護衛艦は、空母と軽巡各1隻を含む。</ref>、輸送艦船20隻と護衛艦艇14隻で構成された[[ヒ71船団]]<ref group="注釈">タンカー9隻のほか、[[陸軍特殊船]]3隻、その他貨物船など8隻。護衛は空母1隻を含む。</ref>などがある。従来の日本船団に比べて大規模であったが、[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]]でイギリスが運航していた護送船団に比べると小規模であった<ref>大井(2001年)、210頁。</ref>。
 
[[ファイル:HIJMS Hayasui-1944.jpg|thumb|right|250px|沈没しつつある給油艦「[[速吸 (給油艦)|速吸]]」。[[ヒ71船団]]にタンカーとして参加していたが、潜水艦の雷撃で失われた。]]
1944年4月の船舶被害は一時的に大きく減少したことから、大船団主義は潜水艦に対する被害対策として一定の効果があったと評価されている。もっとも、アメリカ海軍潜水艦が通商破壊以外の任務に振り向けられたことや、運用ローテーションにより練度の低い艦が増えたことの影響とする見方もある<ref>大井(2001年)、224-226頁。</ref>。いずれにしろ大型化した船団でも、[[レーダー]]や[[ソナー]]などの対潜水艦用センサーが劣っていたことなどから、防御が完璧ではなかった。ヒ船団で最大規模のヒ71船団は、輸送船4隻沈没・3隻損傷のうえ、護衛の空母「[[大鷹 (空母)|大鷹]]」まで失った。優秀輸送船10隻・護衛艦7隻の[[ヒ81船団]]も、多数の兵員・物資を搭載した[[陸軍特殊船]]2隻と護衛の空母「[[神鷹 (空母)|神鷹]]」が撃沈されてしまっている。
 
また、大船団主義は主に潜水艦対策として採用されたものであったが、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンへの連合軍上陸]]など戦況が悪化して新たに航空機の脅威が大きくなると、かえって一網打尽にされる弊害が出てきた。{{和暦|1945}}1月、それぞれ護衛艦を合わせて15隻以上の大型船団だった[[ヒ86船団]]と[[ヒ87船団]]は、[[南シナ海]]に侵入したアメリカ海軍[[第38任務部隊]]の[[艦上機|空母航空隊]]による空襲を受けて、相次いで壊滅してしまった。