「カーネーション (テレビドラマ)」の版間の差分

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==== 安岡家 ====
糸子が幼い頃から家を行き来したり、一緒に食事をしたりなど、親交が深い。[[髪結い]](1946年(昭和21年)からは「安岡[[美容室]]」と改称し再出発。この際に糸子の作った白い洋服のユニフォームを採用)を営む
; 安岡玉枝(やすおか たまえ):[[濱田マリ]]
: [[髪結い]]を営み、夫が戦地の[[青島市|青島]]で[[赤痢]]で病死して以来、女手一つで2人の息子を育てている。[[カレーライス|カレー]]を作るのが得意で、糸子や小原家に振る舞うこともある。
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: その後も追い打ちをかけるように、召集された2人の息子が戦死するなど状況が悪化し、八重子への八つ当たりも激しくなり、日本が敗戦した事で何のために息子達が死んだのかと自室に塞ぎ込んでしまった。
: 1946年(昭和21年)、糸子が意を決して訪れ再会したときには、自室に寝たきりの状態になっていた。蒸発した後にパンパンとなった奈津を助けて欲しいと頼まれ、力不足を理由に最初は断るものの、後日、太郎に背負ってもらい奈津の元を訪れ面会した。
: その後、安岡家に訪れた奈津と八重子に、髪結いも古くなったの髪結い店から鞍替えし安岡[[美容室]]名前を変え改称することを話し、奈津に店を手伝ってほしいと説得する。これを機に起き上がれるようになり、衣服も糸子がデザイン作成した洋服のユニフォームになり新装開店す美容室で再び働き始める。その際、八重子に今までの仕打ちについて謝罪した。
; 安岡泰蔵(やすおか たいぞう):[[須賀貴匡]]
: 玉枝の長男。だんじりの大工方を7年間務めた。思いを寄せられていた奈津について、勘助の同級生の1人であることで知っていたが奈津の気持ちについては気づいてない様子であった。
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: 1942年(昭和17年)オハラ洋装店の、着物に戻せるモンペ作り教室を受講しに来店する。教室終了後、泰蔵が2日後に出征する事を糸子に話し、玉枝も勘助も見送り出来ない為 見送りに来てもらいたいと懇願。糸子も快く了承し和解する。その後、パーマネントの機械を軍事供出されたこともあり、オハラ洋装店に勤め始めた。
: 勘助の帰還後から義母の玉枝からの八つ当たりに耐え続けていたが、終戦後の1945年(昭和20年)10月に限界となり、息子たちを連れ実家へ帰ることを決め込んでいた。しかし糸子の説得で実家に帰らず「安岡美容室」を開く決心をし、資金を糸子から借り、木之元から紹介された[[東京都|東京]]の[[中野区|中野]]の業者へ糸子・昌子と向かい、中古ながらパーマネント機を購入した。
: 1946年(昭和21年)玉枝から髪結い店は古くなったので、安岡美容室として正式開店し、着物から白い洋服のユニフォームに変え、新装開店をする。
; 安岡太郎(やすおか たろう):[[倉本発]] ‐(少年時代:大原光太郎)
: 泰蔵と八重子の長男。中学時代は、[[大日本帝国海軍|海軍]]([[海軍飛行予科練習生|予科練]])に行くことに憧れていた。仕事帰りの八重子を迎えに行き八重子の荷物を率先して持ったり、八重子が実家に帰ることを決めた際には一人残される玉枝のことを心配し糸子に相談するなど、家族思いの少年であった。