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== 概要 ==
エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代の[[フーゼスターン州|フーゼスターン]]などを含む[[イラン高原]]南西部の[[ザグロス山脈]]沿いの地域である。エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミ(Hatami、Haltami)と呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んだ。[[シュメール語]]のエラムはこれの転訛したものである。[[メソポタミア]]という古代文明世界の中心地に隣接したために、その文化的影響を強く受けたが、砂漠や湿地帯によって交通が困難であったために、政治的にはイラン高原地帯との関わりが深かった。エラム人は系統不明の言語[[エラム語]]を話す人々であり、メソポタミアで[[楔形文字]]が発明されてから程なく、エラムでも'''原エラム文字'''と呼ばれる[[絵文字]]が発明された。この原エラム文字で書かれた文章は現在の[[アフガニスタン]]に近い地域からも見つかっており、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられる。メソポタミアの王朝はたびたびエラムに侵入して、これを支配下に置いた。一方でエラム人もメソポタミアへの介入を繰り返し、[[バビロニア]]の王朝をいくつも滅ぼしている。[[紀元前2千年紀|紀元前2000年紀]]に入ると、エラム人も楔形文字を使って記録を残すようになり、多くの情報がわかる。エラムの歴史で中心的役割を果たした都市は[[アンシャン]]、そして[[スサ]]である。スサを中心とした地方は[[ギリシア人]]たちには[[スーサ|スシアナ]]とよばれた。エラム人の残した文化や政治制度は、[[メディア王国|メディア]]や[[アケメネス朝|ペルシア]]に大きな影響を及ぼした。
 
エラム人は、オリエントのほかの地域とは異なる独特の相続制度を持っていた。即ち、王位は親子ではなく、まず兄弟によって相続されていくのである。この相続制度はかなり後の時代にまで継承され、異民族の侵入によっても基本的に変化しなかった。
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この時代から、メソポタミア側の歴史史料にエラムについての情報が載り始める。しかしその記述は多分に伝説的なものであり、編年を明らかにするのは不可能である。
 
'''[[シュメール伝説]]'''には、[[キシュ]]の王[[エンメバラゲシ]]がエラムを征服し戦利品を獲得したというものがある。また、[[ウルク]]の王[[エンメルカル]]はエラムに降伏を迫るためにエラムの領主[[エンスクシュシルアンナ]]へ使者を送り、エラムを服属させたというものもある。
 
古エラム時代の'''[[アワン朝]]'''(Awan dynasty)の王は[[シュメール]]を3代に渡って支配したと伝えられる。だがこれらの説話にどの程度史実が含まれているのかは全くわからない。アワン朝の後には[[ハマズィ朝]]が再びシュメールを支配したという。この他シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが少なくない。具体的な政治史の復元は困難ながら、シュメール時代の初期からエラム人がメソポタミアと接触を持っていたことは確実である。
 
飛躍的に情報が増えるのはエラムに侵攻してこれを支配した[[アッカド帝国]]と、その後の[[ウル第3王朝]]時代からである。アワン朝(シュメールを支配したという王朝と同一であるかは不明)最後の王[[クティク・インシュシナク]]はウル第3王朝の創設者[[ウル・ナンム]]と同時代人であったと考えられる。彼は[[スサ]][[アンシャン]]を征服して、イラン高原における初の統一的な政治勢力を形成した。しかしアワン朝は間もなくウル第3王朝の[[シュルギ]]王の攻撃を受けて崩壊した。
 
アワン朝と入れ替わるようにエラム史に登場した'''[[シュマシュキ朝]]'''(Simashki dynasty)は当初はウル第3王朝や異民族の間断無い攻撃に曝され弱小であったが、やがてウル第3王朝の弱体化に乗じて勢力を拡大し、ウル第3王朝は婚姻政策によってシュマシュキ朝を懐柔しようとするようになった。だがシュマシュキ朝が、全エラムを統合していたのかどうかはよくわかっていない。[[紀元前21世紀|紀元前2004年]]シュマシュキ朝の6代目の王[[キンダットゥ]][[ウル]]を攻撃し、ウル第3王朝を滅ぼした。だが、既にウル第3王朝より離脱し、その実質的後継者となっていた[[イシュビ・エッラ]]の[[イシン第1王朝]]によって破られ、ウルを奪回された。その後シュマシュキ朝はメソポタミア各地に成立した[[アムル人|アムル系]]王朝と対立した。特に[[ラルサ]]など南部メソポタミアの王朝はスサなどの支配権を再び確保しようとしてエラムと戦闘を続けた。
 
[[紀元前19世紀]]頃にはシュマシュキ朝にかわって'''[[エパルティ朝]]'''(Epartid dynasty)がエラムの支配権を握った。この王朝はエラムの主要部分を含んでいたと考えられるが、3代目の王以降'''[[スッカル・マフ]]'''(シュメール語で大総督の意)という称号を用いており、メソポタミアの王朝と何らかの宗属関係があったかもしれない。また、[[ラルサ]]ではスサ北部の別のエラム人国家の王[[クドゥル・マブク]]がラルサ王[[ツィリ・アダド]]を追放し、「アムルの父」を名乗ってその支配権を獲得するなどしていた。彼とその後継者は[[バビロン第1王朝]]の[[ハンムラビ]]王の時代まで、たびたびバビロンと戦火を交えている。だが、こうしたエラム人のバビロニアでの影響力は長続きしなかった。
 
その後[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ系]]の集団や、[[カッシート人]]、[[フルリ人]]の移動などに伴う混乱によってか、エラムは混乱に陥ったらしく記録は少ない。だが、この時代にエラム各地に[[フルリ人]]が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出た。('''バビロニア臣下の時代''')
 
=== 中エラム時代 ===
エラムに再び強力な政治的統合体が現れるのは、「[[アンシャン]]とスサの王」を称した{{仮リンク|イゲ・ハルキ|de|Ige-Halki}}王の時代や、[[紀元前16世紀]]頃から[[紀元前15世紀]]頃にかけて台頭した{{仮リンク|ウンタシュ・ナピリシャ|en|Untash-Napirisha}}王の時代であり、中エラム時代と称する。
 
'''[[キディヌ朝]]'''(Kidinuid dynasty)に5人の王が出た。
 
イゲ・ハルキは古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられている。'''イゲ・ハルキ朝'''(Igehalkid dynasty)の王は10人、またはそれ以上いると考えられるが、彼らとバビロニアとの交渉が記録に残っている。[[紀元前14世紀|紀元前1320年]]には、一時[[カッシート]]朝([[バビロン]]第3王朝)の王{{仮リンク|クリガルズ2世|en|Kurigalzu II}}に服属したが、[[紀元前13世紀|紀元前1230年]]頃には、同王朝の{{仮リンク|カシュティリアシュ4世|en|Kashtiliash IV}}を破り、更に[[キデン・フトゥラン]]王は[[アッシリア]]の圧迫によって弱体化したカッシート朝に二度にわたる攻撃をかけてこれを滅亡させた。しかし間もなくアッシリア王{{仮リンク|トゥクルティ・ニヌルタ1世|en|Kar-Tukulti-Ninurta}}と戦って破れ、バビロニアから駆逐された。
 
[[紀元前13世紀]]末から[[紀元前12世紀]]にかけて新たに'''[[シュトルク朝]]'''(Shutrukid dynasty)がおこり、バビロニアに再び進出を図った。{{仮リンク|シュトルク・ナフンテ1世|en|Shutruk-Nakhunte}}は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功した。[[マルドゥク神像]]を略奪した他、[[ハンムラビ]]法典の石碑もこの時スサへ持ち帰り、後に現代の考古学者によってスサで発見されることになる。アッシリアの政治混乱ともあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となっていった。だが、間もなくバビロニアに新たに勃興した[[イシン第2王朝]](バビロン第4王朝)の英王[[ネブカドネザル1世]]によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還された。
 
 
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=== 新エラム時代 ===
こういった時代にようやく終止符が打たれ、エラムに新たな時代が訪れるのは[[紀元前8世紀]]頃のことである。この頃新たに'''[[フンバンタラ朝]]'''(Humban-Tahrid dynasty)が成立して、一応の安定が達成された。当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援した。バビロニアは[[紀元前8世紀|紀元前729年]]に[[ティグラト・ピレセル3世]]によって征服されていたが、その後エラムの支援の元で[[メロダク・バルアダン2世]]がアッシリアに反乱を起こし自立していた。アッシリア王[[サルゴン2世]]はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服したが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世はエラムに逃げ込み、エラム人は彼を匿った。そして、[[紀元前8世紀|紀元前703年]]頃、再び彼をバビロニア王に付けてアッシリアから離反させることを試み一時成功した。だが、[[センナケリブ]]王の遠征によってバビロニアは再併合された。
 
しかし尚もエラムはバビロニアの反乱勢力を支援して介入を続けた。新たに王位についた[[フンマ・メナヌ3世]]は[[紀元前7世紀|紀元前694年]]には、バビロニアの反乱を支援して、アッシリアの王子、[[アッシュール・ナディン・シュミ]]を捕縛することに成功し、再びバビロニアを独立させた。これは更なるセンナケリブ王の遠征({{仮リンク|ハルールの戦い|en|Battle of Halule}})を招き、一時的にはアッシリア軍に対抗したものの、最終的にバビロニアはアッシリアの支配下に入りバビロニアに対するエラムの影響力確保は失敗した。
 
その後もアッシリアとバビロニアを巡って争いを続けた。アッシリア王[[アッシュールバニパル]]が、兄弟のバビロニア王[[シャマシュ・シュム・ウキン]]と兄弟戦争を戦った際には、シャマシュ・シュム・ウキンを支援して再びバビロニアを離反させることを狙った。しかしこの戦いでシャマシュ・シュム・ウキンは敗死し、アッシュールバニパルはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出した。エラム王{{仮リンク|テウマン|ru|Темпти-Хумпан-Иншушинак}}は{{仮リンク|テュル・テュバの戦い|ru|Темпти-Хумпан-Иншушинак#Война с Ассирией}}でアッシリア軍に敗北し、[[紀元前7世紀|紀元前646年]]スサは多大な被害を受けた。これによって大国としてのエラムの歴史も終わりを告げた。テウマンの後継者{{仮リンク|フンマ・ハルダシュ3世|ru|Хумбан-Халташ III}}は尚もアッシリアに対抗を続けたが、[[紀元前7世紀|紀元前640年]]にスサはアッシリアに占領されるに至った。
 
しかしながら、アッシリアは国内の諸部族の抵抗に悩まされており、スサ占領も長くは続かず、しばらくしてエラム王国は復活した。ただ最早往時の権勢を示すことはなく、イラン高原の殆どは[[メディア王国|メディア]]の支配下に置かれ、エラム王国の支配地域はスサを中心とするスシアナ地方に限られた。539年にスサは[[キュロス大王]]率いる[[アケメネス朝]]ペルシアの支配下に置かれ、ここにエラム王国は歴史から姿を消した。しかし、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの諸制度は、その後も[[アケメネス朝]]時代においても受け継がれ、行政語などとして[[エラム語]]も使用され続けた。
 
== 言語 ==