「中川忠英」の版間の差分

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[[寛政]]9年([[1797年]])[[勘定奉行]]として、[[関東郡代]]を兼帯する。[[享和]]3年([[1803年]])[[武蔵国]][[栗橋宿]]に[[静御前]]の墓碑がないことを哀れみ「静女之墳」の碑を建立する。[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])[[大目付]]になり(関東郡代兼帯)、文化4年([[1807年]])[[蝦夷地]]に派遣された。文化8年([[1811年]])には、[[朝鮮通信使]]の応接を務めた。その後は文政3年([[1820年]])[[留守居|留守居役]]、[[旗奉行]]を歴任。旗奉行在任中の文政13年(1830年)9月に78歳で没した。
== 関連項目 ==
 
*[[鈴木重嶺]]
== 参考文献 ==
*[http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/shinzoku/ 清俗紀聞(九州大学デジタルアーカイブ)]