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'''少弐 資時'''(しょうに すけとき)は、[[鎌倉時代]]中期の[[少弐氏|少弐]]一族の武将。[[少弐経資]]の長男。[[壱岐国]][[守護代]]。1262年生-1281年(弘安4年)没。
== 人物 ==
[[文永]]11年([[1274年]])の[[文永の役]]で、叔父の[[少弐景資]]に従って12歳で初陣した。弘安4年(1281年)の[[弘安の役]]では、壱岐国瀬戸(現・壱岐市芦辺町)の船匿城に、父の[[少弐能]]や父代理として居たが、蒙古軍による船匿城攻めの戦闘にて[[少弐]]とも討ち死日本軍を率いて壱岐島を占領する東路軍対する攻撃で戦死する。享年19歳。祖父の[[少弐]]や父の[[少弐経資]]もこの戦闘で負傷した。この壱岐島の戦いで敗退した東路軍壱岐を放棄して平戸島に移動した。後に叔父の[[鷹島少弐景資]]は、[[弘安の役鷹島]]で蒙古軍戦っ殲滅した。
 
== その他 ==