「由良国繁」の版間の差分

編集の要約なし
(詳細)
天正10年、甲斐の武田家が滅ぼされると国繁、顕長兄弟は、他の上野国衆と同様に[[織田信長]]の重臣・[[滝川一益]]に仕えたが、[[神流川の戦い]]では北条方となり一益と敵対した<ref>松平義行氏所蔵文書</ref>。
 
天正11年9月、[[北条高広]]が守る[[厩橋城]]が落城すると、国繁、顕長兄弟は祝辞の為に厩橋城の[[北条氏直]]に出仕した。氏直は佐竹を攻める為、[[新田金山城|金山城]]と[[館林城]]の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、家臣は国繁と顕長の母・妙印尼を擁立して籠城した為、兄弟は[[小田原城]]に幽閉されてしまう<ref>石川忠総留書</ref>。篭城勢は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]、[[佐野宗綱]]と結び、北条方であった[[小泉城]]の[[富岡秀長]]を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。
 
天正13年正月、金山城、館林城は当初の予定通り、[[北条氏照]]に明け渡されたが兄弟の知行は安堵され、国繁は[[柄杓山城]](桐生城)、顕長は[[足利城]]に本拠を移した。但し北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。
匿名利用者