「ジョージ3世 (イギリス王)」の版間の差分

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天文学者の[[ウィリアム・ハーシェル]]等を支持する。自分の課した重税問題に苦悩し、晩年は精神障害になり皇太子の[[ジョージ4世 (イギリス王)|4世]]が補佐する。
[[アメリカ合衆国|アメリカ植民地]]に課税したので([[ボストン茶会事件]]時の王)、内輪・イギリスでは喜ばれたが、これが[[アメリカ独立戦争]]を招き、北米の領土を失った。首相の[[ウィリアム・ピット|小ピット]]を抑えて[[トーリー党]]を再建する。[[1811年]]に[[発狂]]し、以後[[ウィンザー]]で生活、政治は息子の皇太子が[[摂政]]として担当した。1820年1月29日死去。[[享年]]82。在位60年は[[ヴィクトリア女王]]の64年に継ぐ歴代第2位である。
 
== 即位するまで ==
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== ジョージ3世の家族について ==
[[1761年]][[9月8日]]にジョージ3世はメクレンブルク=シュトレリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘シャーロット・ソフィアと結婚した。両者の間には[[1762年]][[8月12日]]に生まれた後のジョージ4世となる皇太子ジョージ・オーガスタス・フレデリックをはじめ、九男六女に恵まれた。華美を嫌い、家族を大事にするジョージ3世の性格もあり、女性問題などの夫婦間のトラブルとも無縁であった。しかし、九男六女の子供達は成長するにつれ、そろいもそろって[[スキャンダル]]を巻き起こす。特に皇太子は、ギャンブルで多額の借金を作ったり、女性にほれ込んで多額の金を貢いで歳費が足りなくなって父親に泣きついたりという問題児であった。更に次男ヨーク公フレデリックは最高軍司令官であるにもかかわらず、愛人を通じて賄賂を受け取っていたことを議会で指摘され、その地位を失うなどスキャンダルには事欠かなかった。これらのスキャンダルは誕生したばかりのメディアの格好の標的となり、王室一家のスキャンダルを扱った新聞や風刺漫画は大いに売れ、その様子を1990年代の一連の王室スキャンダルと比較する専門家もいるほどである。ジョージ3世が精神異常で1811年に正気を完全に失ったのもこの子供達のスキャンダルが原因であり、神経が元々繊細であったジョージ3世にとって息子達の相次ぐスキャンダルは耐え難いものであった。
 
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<table border="1">
 
<tr>
{{先代次代|[[イギリス君主一覧]]||[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]|[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]}}
<td width="30%" align="center">前の王:<br>
 
[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]</td>
 
<td width="40%" align="center">[[イギリス君主一覧]]</td>
<td width="30%" align="center">次の王:<br>
[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]</td>
</tr>
</table>
 
[[Category:連合王国の君主|しよおし3]]
[[Category:ハノーファーの君主|しよおし3]]
{{生没年|しよおし3|1738年|1820年}}
 
 
{{History-stub}}