「ロン・ポール」の版間の差分

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|各国語表記 = Ron Paul
|画像 = Ron Paul, official Congressional photo portrait, 2007.jpg
|画像説明 =
|国略称 = {{USA}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1935|8|20}}
|出生地 = [[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]グリーン・ツリー
|没年月日 =
|死没地 =
|出身校 =
|前職 =
|現職 = [[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]([[テキサス州]]第14選挙区選出)
|所属政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]]
|称号・勲章 =
|親族(政治家) = [[ランド・ポール]](次男)
|配偶者 =
|サイン = Ron Paul signature.svg
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 =
|職名 = 連邦下院議員
|選挙区 = テキサス州第22選挙区
|当選回数 =
|就任日 = [[1979年]][[1月3日]]
|退任日 = [[1985年]][[1月3日]]
|所属委員会 =
|議員会館 =
|元首職 =
|元首 =
}}
''' ロナルド・アーネスト “ロン” ポール''' ('''Ronald Ernest "Ron" Paul''', [[1935年]][[8月20日]] - ) は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]所属で[[テキサス州]]選出の[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]であり、任期は通算で10期目を数え。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]所属
 
[[1974年]]に[[共和党 (アメリカ)|共和党]]から連邦下院議員へ立候補するも落選。その後[[1976年]]の議員補欠当選したのの、数ヶ月後の通常選挙で{{仮リンク|ロバート・ガメッジ|en|Robert Gammage}}に敗退すなどしたが。その後、1978年に当選。1980年よを果たし、3期にわた2年間下院議員を務めた。[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]へ [[リバタリアン党 (アメリカ)|アメリカ・リバタリアン党]]としてのから出馬するが、3位に終わる。1996年に共和党へ再当選。以降数年にわたり再当選を繰り返す
 
1996年に下院議員に再当選し、以降、下院議員を務めており、任期は通算で10期目を数える。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]において、共和党の予備選挙に出馬したが、同党の大統領候補には指名されなかった。[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]]でも予備選挙に出馬している。
2007年に[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]への再度出馬を表明。[[カリフォルニア州]]にあるロナルド・レーガン大統領図書館で2008年1月30日に行われた共和党大統領立候補者の対談にも参加し、各メディアに取り上げられるなど選挙活動を続ける。インターネットにおいて、名声が高く支持率が高い。
 
== 政策 ==
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数年間、ロンは地元で[[医師]]として働いたが、[[1971年]][[8月15日]]に[[リチャード・ニクソン]]大統領が、[[米ドル]]の[[金本位制]]からの完全な脱却を宣言([[ニクソン・ショック]])したことを動機として政界入りを決心した。彼は「その日から全ての[[貨幣]]は、もはや本来の価値によって決まるのはなく、政治によってその価値が決まることになるだろうと思い、私は愕然としたんだ。」と言っている。
 
やがて[[1974年]]の[[中間選挙]]政治集会で[[テキサス州]]22区の候補者として共和党から出馬したが、現職の民主党のロバート・R・ケーシーに敗北を喫した(この時の選挙は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補者が大勝した選挙であった)。その後1976年4月に[[ジェラルド・R・フォード]]大統領がケーシーを連邦海事委員会の長官に任命したため、後任を選出するための[[補欠選挙]]が行われ初めて議席を得る(選挙区始まって以来の共和党議員でもあった)。しかし同年に行われた大統領選では予備選の段階において[[ロナルド・レーガン]]を支持(現職議員の中でもレーガンを支持したのはロンを含めて4人だった)、全国党大会でテキサス代表団がレーガンを支持する様に働きかけた。結局、6ヶ月後の[[通常選挙]]では僅か300票差で民主党のロバート・A・ガメージに議席を奪われた。1978年の選挙で雪辱を果たし、1980年と1982年の選挙でも再選を収めた。議員在職中にも月曜日と土曜日には産婦人科医として勤務し、自らが[[憲法|違憲]]だと思った法案には賛成票を投じなかったことから ''Dr.No'' と言う評判を集めていた。
 
ポールは、アメリカ連邦議会で、1970年代で初めて下院での任期制限法を提案した議員で、彼自身、4期の任期中、視察旅行への参加や、議員年金への登録を辞退していた。また彼は、[[インフレーション]]率に応じて議員給与を下げようと提案していた。1980年、共和党員の大多数が賛成していたカーター大統領の、徴兵登録制度を復活するという提案を、ポールは、彼らの見解の矛盾を指摘し、またこれは[[ウォールストリート・ジャーナル]]の記事によるが、彼らは銃を登録するより子供達を登録したがるだろう、と言った。