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{{改名提案|
{{Otheruses|江戸時代前期の仙台藩家臣|明治時代の旧宇和島藩伊達家の当主|伊達宗倫 (男爵)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 伊達宗倫
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[寛永]]17年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1640年]][[5月23日]])
| 死没 = [[寛文]]10年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]([[1670年]][[3月30日]])
| 改名 =
| 別名 = 辰之助、式部少輔、式部大輔
| 戒名 = 高台院殿天山宗清大居士
| 墓所 = 覚乗寺([[宮城県]][[登米市]])
| 官位 =
| 主君 = [[伊達忠宗]]→[[伊達綱宗|綱宗]]→[[伊達綱村|綱村]]
| 藩 = [[仙台藩]]
| 氏族 = [[伊達氏]]→[[白石氏|登米伊達氏]]
| 父母 = 父:[[伊達忠宗]]、母:瑞昌院(長田忠重の娘)
| 兄弟 = 虎千代丸、[[伊達光宗|光宗]]、[[田村宗良]]、五郎吉、'''宗倫'''、綱宗、[[伊達宗規 (岩谷堂伊達氏)|宗規]]、[[伊達宗房|宗房]]、[[飯坂宗章]]
| 妻 = 正室:[[白石宗貞]]の二女・'''霊光院'''
| 子 = 養子:'''''[[伊達村直|村直]]'''''(伊達綱宗の子)
| 特記事項 =
}}
'''伊達 宗倫'''(だて むねとも)は、[[江戸時代]]の[[武士]]。、[[仙台藩]]第2代藩主[[伊達忠宗]]の五男。仙台藩一門第五席・[[白石氏|登米伊達氏]]第4代当主。[[伊達騒動]]の主要人物の一人。'''伊達式部'''の通称で知られる。
== 生涯 ==
[[寛永]]17年([[1640年]])4月3日、[[仙台藩]]第2代藩主[[伊達忠宗]]の五男として生まれる。幼名は'''辰之助'''。
寛永21年([[1644年]])7月に[[白石氏|登米伊達氏]]を継いでいた同母兄の五郎吉が死去すると、翌[[正保]]2年12月2日(西暦では[[1646年]]1月)にその跡取りとして迎えられ、登米伊達氏第4代当主となる。[[慶安]]3年([[1650年]])2月18日、元服して'''宗倫'''と名乗る。[[万治]]3年([[1660年]])7月、異母弟の第3代藩主[[伊達綱宗|綱宗]]の隠居願に他の一門・重臣と共に署名する。この時、藩内には次期藩主として宗倫を推す声もあったが、結局は綱宗の長子・亀千代(のちの[[伊達綱村|綱村]])が第4代藩主となっている。
宗倫は新田開発に力を注ぎ、相続時には10,570石であった知行高を万治年間には12,168石に伸ばし、最終的には14,152石([[寛文]]10年([[1670年]])時点)まで増加させている。その結果、野谷地(未開発地域)の減少にともなって隣接する他領との緩衝地帯が消滅したため、寛文年間に入ると同様に盛んな新田開発を進めていた[[亘理氏|涌谷伊達氏]]当主・[[伊達宗重]]との間で境争論が頻発するようになる。登米伊達氏は寛永年間に袋中地方(現:登米市中田町一帯)をめぐる[[佐沼城]]主津田氏との争論において屈従を強いられた過去があり、宗倫は争論に臨んで強硬な姿勢を示すことが多かった。
==系譜==▼
寛文5年([[1665年]])に登米領の[[登米郡]]赤生津村と涌谷領の[[遠田郡]]小里村との間の争論では宗重が妥協して宗倫に係争地を譲ったが、寛文7年([[1667年]])10月に提起された登米領の[[桃生郡]]大窪村と涌谷領の遠田郡二郷村との間の争論は、対象が当初の2か村の問題から郡境の広い範囲に拡大したことと、両者の主張する領分が大きく食い違ったこと、さらには郡境を示す明確な証拠である『[[正保国絵図]]』の控えが失われていたことが相まって容易に決着しなかった。そのため、宗重からは両家合同での検分により郡境を確定したいとの申し入れがあったが、宗倫は仙台本藩による裁決によって決着したいと回答し、寛文8年([[1668年]])4月に本藩に対し検分役人の派遣を要請した。この時は幕府の国目付が在国中であることを理由に要請を差し止められたが、一門の[[石川宗弘]]・[[伊達宗敏]]による仲裁も効果無く、宗倫は国目付が仙台を離れた翌寛文9年([[1669年]])2月に再び訴えを起こした。
訴えを受けた本藩後見役の[[伊達宗勝]]([[一関藩]]主)・[[田村宗良]]([[岩沼藩]]主)の両名は同年5月23日に[[酒井忠清]]([[大老]])・[[立花忠茂]](前[[柳川藩]]主)の内諾を得て野谷地の3分の2を登米領に、3分の1を涌谷領にする裁定を下した。宗倫・宗重は共に一応の不服は訴えたものの両者とも裁定に従い同年7月に検分が開始されたが、伊達宗勝の威を笠に着た検分役の[[今村安長]]が裁定に反して涌谷領を5分の1以下に削り、これに抗議した涌谷家中に対して無礼を働いた。これに激怒した宗重が宗勝一派のこれまでの不正の数々を幕府に上訴するに至り、[[寛文]]11年([[1671年]])の酒井忠清邸での刃傷沙汰(狭義の[[伊達騒動]])へと発展する。この争論が騒動の最終局面への引き金となったため、宗倫の騒動における立ち位置は宗勝派の側に分類されることが多いが、宗倫は宗勝派の中心人物の一人である[[津田景康]]とも争論を抱えており、単純に宗倫を宗勝派と見なすことは出来ない。
寛文10年([[1670年]])1月15日、前年に行われた亀千代の殿上元服への御礼のため、藩主名代として江戸に赴き将軍・[[徳川家綱]]に拝謁したが帰国直後に病に倒れ、2月10日に仙台で死去した。享年31。家督は同年5月に入嗣した綱宗の子・[[伊達村直|熊之助]]が相続した。宗倫は登米伊達氏の菩提寺である養雲寺ではなく、自身が再興した寺池の覚乗寺に埋葬され、寛文12年([[1672年]])に完成した宗倫の[[廟|霊屋]](天山廟)は「覚乗寺高台院霊屋」として宮城県より文化財指定を受けている。
▲== 系譜 ==
*父:[[伊達忠宗]]
*母:側室・瑞昌院(長田忠重の娘)
**養子:[[伊達村直]]▼
*養父:伊達五郎吉(同母兄、正室は白石宗貞の長女)
*正室:霊光院([[白石宗貞]]の二女)
== 参考文献 ==
*『登米町誌』第1巻(宮城県登米郡登米町、1990)
*平成『仙台市史』通史編4〔近世2〕(宮城県仙台市、2003)
▲{{先代次代|[[登米伊達氏]]|第4代|[[伊達五郎吉|白石五郎吉]]|[[伊達村直]]}}
{{DEFAULTSORT:たて むね
[[category:伊達氏|むね
[[category:
[[category:1640年生]]
[[category:1670年没]]
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