「コンヤ」の版間の差分

m
スタイルの調整など
m (r2.6.5) (ロボットによる 追加: hy:Կոնիա)
m (スタイルの調整など)
|愛称 =
|標語 =
|画像 =Lupus-CollageKule KonyaSite 3.pngjpg
|画像サイズ指定 =
|画像の見出し =セルジュークタワー
|市旗 =
|市章 =
|人口の時点 =2009年
|人口に関する備考 =
|総人口 =100100
|人口密度(平方キロ当たり) =
|人口密度(平方マイル当たり) =
|備考 =
}}
'''コンヤ''' ('''Konya''') は、[[トルコ]]の内陸[[アナトリア半島|アナトリア]]地方の主要[[都市]]のひとつ。'''コニヤ'''ともカナ表記される。[[コンヤ県]]の県都で、2009年の人口は約100万人
 
== 概要 ==
[[パウロ]]が[[キリスト教]]の布教に訪れたことで知られる都市'''イコニウム'''(Iconium)の後身で、西欧諸言語における伝統的な表記はConiaあるいはKonia(コニア)である。
トルコ内陸[[アナトリア半島|アナトリア]]地方の主要[[都市]]のひとつ。[[コンヤ県]]の県都で、[[2009年]]の人口は約100万人。
 
[[パウロ]]が[[キリスト教]]の布教に訪れたことで知られる都市'''イコニウム''' (Iconium) の後身で、西欧諸言語における伝統的な表記はConiaあるいはKonia(コニア)である。
 
[[2006年]]にコンヤ貿易センターに42階建てのセルジュークタワーが建設された (写真参照) 。
 
[[2011年]]には[[トルコ高速鉄道]]のアンカラ・コンヤ高速線の開業により、首都[[アンカラ]]まで従来10時間以上掛かっていた所要時間が1時間30分に短縮された。将来は1時間15分で結ばれる計画となっている。
 
== 歴史 ==
[[フリギア]]、[[リディア]]の時代から存在する都市で、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の征服を経て[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]の支配を受け、[[ギリシャ語]]では'''イコニオン''' (Iconion) と呼ばれた。[[アッタロス朝|ペルガモン王国]]の後に[[ローマ帝国]]に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。
 
[[パウロ]]は弟1次伝道旅行の際、[[バルナバ]]を伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった<ref>『新聖書辞典』107ページ</ref>
 
パウロ書簡の一つ[[ガラテヤ人への手紙]]は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある([[南ガラテヤ説]])
 
その後も[[東ローマ帝国]]のもとでキリスト教都市として栄えるが、[[マラズギルトの戦い]]の後、アナトリアに侵入してきた[[トルコ人]][[ムスリム]](イスラム教徒)の侵攻にさらされ、[[1076年]]に[[セルジューク朝]]の王族[[スライマーン・イブン=クタルミシュ|スライマーン]]によって征服された。まもなく、スライマーンの建設した[[ルーム・セルジューク朝]]が[[第1回十字軍]]によって[[ニカイア]]を奪還された後、コンヤがかわって[[首都]]となるが、[[1097年]]に[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]、[[1190年]]には[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]によって一時的に占領された。
 
[[13世紀]]に入ると、[[ルーム・セルジューク朝]]は最盛期を迎え、東は[[アルメニア]]から南北は[[地中海]]、[[黒海]]両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸の[[クリミア半島]]にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。[[1237年]]の[[カイクバード1世]]の死後、[[モンゴル帝国]]の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が[[14世紀]]の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南の[[カラマン]]に興った[[カラマン君侯国]]の支配下に入り、その首都となる。14世紀末に[[オスマン帝国]]の[[バヤズィト1世]]により征服されるが[[アンカラの戦い]]の後再びカラマン領となり、[[1466年]]に至ってカラマン君侯国が[[メフメト2世]]に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。
 
 
この間、[[1228年]]には[[中央アジア]]の[[バルフ]](現在の[[アフガニスタン]]北部)に生まれた[[スーフィーズム|イスラム神秘主義者]]、[[ルーミー]](メヴラーナ)が[[カイクバード1世]]の招請によってコンヤに定住、[[1273年]]に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団である[[メヴレヴィー教団]]を開いた。コンヤにあるルーミーの[[廟|墓廟]]はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、[[1927年]]に[[ケマル・アタテュルク]]政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクや[[セリム2世]]のセリミエ・モスクなど多くの[[モスク]]があり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。
 
== 姉妹都市 ==
* [[パキスタン]]、[[ムルターン]]
* [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[サラエヴォ]]
* [[イラン]]、[[タブリーズ]]
* [[マケドニア共和国]]、[[テトヴォ]]
* [[イエメン]]、[[サヌア]] (2011年10月より)
 
== 脚注 ==
2,931

回編集