「佐久川寛賀」の版間の差分

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'''佐久川 寛賀'''(さくがわ かんが、生没年不詳。 [[1786年]] - 1867年、ほか複数説あり<ref>他に[[1782年]]-[[1837年]]、[[1733年]]-[[1815年]]、[[1762年]]-[[1843年]]説などがある。外間哲弘『空手道歴史年表』21頁参照。</ref>。)は[[沖縄県]]の[[琉球王国]]時代の武術家。
 
現代の[[空手]]の源流の一つである唐手(とうで、トーディー)の祖にあたり、'''唐手佐久川'''(とうでさくがわ、トーディー・サクガァー)とあだ名された。「彼(佐久川)の後には彼はなく、後世の世に称せられる人で、力量その他の点において、彼の右に出るほどの人はなかった」([[本部朝基]])と讃えられる唐手(とうで)の大家である。
 
== 経歴 ==
佐久川は20代(30代とも)の頃、[[中華人民共和国|中国]]へ渡ったとされる。この時の航海途中、佐久川が乗った船は[[海賊]]に襲われたが、佐久川は棒を使って海賊を退治したとの[[武勇伝]]が伝えられている。佐久川は、[[北京市|北京]]で勉学に励む傍ら[[中国武術]]を修行したとされる。佐久川の師匠は、武術教官の「イワァー」だったともいわれるが、真偽ははっきりしない。一説には、佐久川はその後も数度、進貢船の乗員として北京へ渡り、最後は[[1836年]]に渡航し、北京滞在中の[[1837年]]、病のため北京で客死したとされる。遺骨は北京の外蛮墓地に葬られた。これは[[戦前#日本史の戦前|戦前]]、子孫が現地に行って確認してきたという。しかし、近年ではこれに対して異論も出ており、佐久川が北京で死亡した事実はなく、[[1838年]]にはまだ八重山在番を勤めるなど健在だったとの指摘も出ている<ref>『沖縄空手古武道事典』434頁参照。</ref>。
 
帰国していた時期に佐久川は、幼少の頃より学んだ沖縄固有の武術「[[手 (沖縄武術)|手(ティー)]]」に、北京で学んだ中国武術を融合させて独自の武術を創造したと考えられている。ただし、これが今日の空手の原型にあたるかは不明であり、意見の別れるところである。佐久川はその武技から「唐手佐久川」とあだ名されるが、この「唐手」は「カラテ」ではなく「トーディー」と読むものであり、「中国(唐)の武術(手)」を表す言葉であった。これはつまり、佐久川が「中国武術の使い手」として認識されていた事を意味しており、カラテの祖が佐久川であるという事を示すものではない。唐手(カラテ)は[[糸洲安恒]]が学校教育への導入を目指した際につけた呼び名であるが、佐久川の唐手(トーディー)とは意味合いが異なる。従って一般に空手の歴史を語る際、師弟関係から見れば、佐久川を空手の祖として見る事もできるが、中国武術とは異なる「カラテ(唐手、空手)」としての祖を考える場合には、佐久川は「空手の創始者」というよりは「中国拳法の使い手、導入者」として見る方が正確であるなど、意見が分かれる。
なお、沖縄県には「佐久川の棍」という棒術が伝えられているが、これは佐久川寛賀の作という説と別人の説という二つの説がある。
 
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