「リチャード・P・ファインマン」の版間の差分

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*カリフォルニア工科大学の同僚であった[[マレー・ゲルマン]]とは強力なライバル関係にあった。ゲルマンが命名した[[クォーク]]のことをファインマンは「パートン」(部分子)と呼び、「ファインマン・ダイアグラム」のことをゲルマンは「[[エルンスト・シュテュッケルベルク|ステュッケルベルク]]図」と呼んでいた。
*[[シカゴ大学]]で研究所の所長を務めていた[[エンリコ・フェルミ]]が他界した後、その後任として就任の要請が来たが、カリフォルニア工科大学の環境の良さを気に入っていた為に待遇も聞かずに断った。後日にその給料が知人から知らされたが、その高さに驚き、逆に断ってよかったと懐古している<ref>R. P. Feynman and R. Leighton, "An Offer You Must Refuse," Classic Feynman, p.246-247, 2006.</ref>。
*[[フリーマン・ダイソン]]は英国の両親に宛てた手紙の中でファインマンの事を「半ば天才、半ば道化」と評して、事実ファインマンの一般的イメージも「自由奔放で愉快な天才科学者」で認知される。ただダイソンは自分で軽々しく形容したファインマンに対する上記の第一印象を後々酷く後悔している。
*可愛い娘には目がなく、女性の心理を色々と研究して、どのようにすれば女性にモテるかをよく知っていたし、実際よくモテた。カリフォルニア工科大学で教鞭を執っているときはほとんど毎日のように自宅近くのストリップバーに通っていて、[[ダンス]]を眺めたり[[ダンサー]]の気を引いたりしていた。また、[[ラスベガス]]が好きだったが、その理由のひとつもダンサーに会えることだった。
*ファインマン・ダイアグラムがそこかしこに描かれたマスタードカラーのバンに乗っていた(ナンバープレートはQANTUM:ナンバープレートの文字数制限(6文字)のため)。このバンは現在カリフォルニア工科大学に寄贈されている。