「ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)」の版間の差分

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第1次世界大戦に向けた作戦計画と戦争準備は[[ウラジーミル・スホムリノフ]]とその幕僚たちの責任のもとで行われていたため、ニコライ大公はこの時点では何の役割も担っていなかった。第1次大戦がいよいよ始まる段になって、自分が最高司令官を務める気でいた[[ニコライ2世]]は、やめてほしいという大臣たちの懇願に根負けし、1914年7月20日、従叔父のニコライ・ニコラエヴィチ大公を帝国軍最高司令官に任じた。ニコライ大公は57歳になっていたが、まだ戦場で総司令官として采配を振ったことは一度もなかった。彼は自分がこれまで一度も率いたことのない規模の巨大な軍隊を統率する責務を負わされた。
 
ニコライ大公はドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコなど[[中央同盟国]]と戦う全ロシア帝国軍の最高責任者だった。大戦開始直後から、ニコライ大公は苦戦を強いられた。[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]では、第1軍と第2軍との連携がうまくいかなかったために、壊滅的な敗北を喫した。一方で続いて起きた[[{{仮リンク|ヴィスワ川の戦い]]|en|Battle of the Vistula River}}[[{{仮リンク|ウッチの戦い (1914年)|en|Battle of Łódź (1914)|label=ウッチの戦い]]}}では、ロシア軍が勝利を得た。大勢のロシア将軍たちが様々な作戦プランを決めていく場において、ニコライ大公の役割は限られたものとなった。大公とその参謀からは勝利する公算の大きそうな、首尾一貫した作戦計画が出されることはなかったが、大公は個人のレベルでは将官にも一般兵士にも好かれていた。
 
ニコライ大公は軍事指導者というより官僚に近い性格だったようで、幅広く戦略的な視点や巨大なロシア全軍を率いる者に求められる冷酷さを持ち合わせていなかった。彼の司令部は、沢山の敗北を喫し大勢の戦死者を出しているにもかかわらず、戦時とは思えないほど平穏な雰囲気であった。このまま大公に任せてもロシア軍の苦境は好転しないと考えたらしい皇帝は、自ら戦争の最高責任者を引き受けようと決意した。1915年3月22日、大公は[[{{仮リンク|プシェムィシル攻囲戦]]|en|Siege of Przemyśl}}に勝利して二等[[聖ゲオルギー勲章]]を授与された。しかしその5か月後の8月21日、ロシア軍が戦略的撤退を行った際に、皇帝は(皇帝一家の精神的支柱となっていた[[グリゴリー・ラスプーチン]]の助言を受けて)大公を解任し自ら最高司令官に就任した。
 
大公は最高司令官職を解かれてまもなく、[[カフカース]]地方の総司令官および副王に任じられた(それまでこの地域で采配を振っていたのは[[イラリオン・ヴォロンツォフ=ダーシュコフ]]伯爵だった)。公式にはニコライ大公が総司令官だったものの、[[オスマン帝国]]との戦いを担うカフカース方面軍を実質的に指揮していたのは[[ニコライ・ユデーニチ]]将軍であった。大公の総司令官在職中に、カフカース方面のロシア軍は遠征軍を派遣し、遠征軍は[[ペルシア]]を通過して南側にいたイギリス軍と合流した。1916年、ロシア軍は[[{{仮リンク|エルズルムの戦い]]|en|Erzurum Offensive}}に勝利して[[エルズルム]]要塞、[[トレビゾンド]]港、[[エルズィンジャン]]を占拠した。トルコ軍はさらに攻勢をかけ、両軍は[[ヴァン湖]]周辺で一進一退を繰り返したが、決着はつかなかった。
 
1917年、ニコライ大公はロシア領[[グルジア]]から占領地域まで鉄道を敷設し、人員物資の補給ルートを万全にしてさらなる攻勢をかけようとした。しかし1917年3月に皇帝ニコライ2世が退位すると、ロシア帝国軍は徐々に解体し始めた。