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{{基礎情報 武士
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|主君 = [[別所長治]]→[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]→[[前田利家]]→[[前田利長|利長]]
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'''赤松 氏満'''(あかまつ うじみつ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]。[[赤松氏]]の庶流の一族で、[[赤松則村]]の長男[[赤松範資|範資]]の後裔。父氏貞が石野城に拠ったことから石野氏を名乗った。
== 生涯 ==
[[天正]]6年([[1578年]])、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[三木城]]を攻めると、[[別所長治]]の部将として羽柴方の猛将[[古田重則]]を射殺するなど活躍するが三木城は陥落([[三木合戦]])。秀吉、[[前田利家]]に属し、[[小田原の役|小田原攻め]]、八王子攻めに参陣し、3千石余を得
==
子の氏置は[[徳川家康]]の[[旗本]]([[御伽衆]])となった。氏満の玄孫で[[遠国奉行]](日光奉行)の[[赤松範恭|範恭]]が[[宝永]]年間に名実共に赤松姓に復し、5千石余の旗本として幕末まで存続した。一説には[[交代寄合]]であったという。▼
▲[[天正]]6年([[1578年]])、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[三木城]]を攻めると、[[別所長治]]の部将として猛将[[古田重則]]を射殺するなど活躍するが三木城は陥落([[三木合戦]])。秀吉、[[前田利家]]に属し、[[小田原の役|小田原攻め]]、八王子攻めに参陣し、3千石余を得る。
▲氏満の玄孫で[[遠国奉行]](日光奉行)の[[赤松範恭|範恭]]が[[宝永]]年間に名実共に赤松姓に復し、5千石余の旗本として幕末まで存続。一説には[[交代寄合]]であったという。
{{赤松氏歴代当主|||石野氏}}
▲幕末の[[外国奉行]]・[[赤松範忠]]はこの氏満から数えて10代目に当たり、[[書院番頭]]も務めた。また、[[享保]]年間の[[勘定奉行]]・[[石野範種]]は分家筋の旗本である。江戸後期の[[軍艦奉行]]・[[赤松範静]]は範忠の子である。
▲また、同じく氏満の玄孫で分家筋の旗本だった[[有馬則維|則維]]が、血筋が近いこともあり、兼ねてから縁のあった[[有馬則故]](旗本3千石)の養子になり、その後嗣子がなかった[[久留米藩]]を相続し、この血統が幕末まで存続することになる。300石の旗本の五男から21万石の大名への大出世である。
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:あかまつ うしみつ}}
[[Category:赤松氏|うしみつ]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:
[[Category:1553年生]]
[[Category:1606年没]]
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