「日野熊蔵」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
11行目:
19日になって日野・徳川の両方が成功し、これが初めて動力機初飛行として公式に認められた。これは、徳川家の血筋である好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍の意向だったといわれている<ref>[[横田順彌]]『雲の上から見た明治』、学陽書房、1999年、15-16頁。</ref>。しかし、当時天才[[発明家]]などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった<ref>[[村岡正明]]『初飛行』、光人社、2010年、134、156頁。</ref>。また陸軍の方針としてたとえ名家の出身であっても軍内部での扱いは平民と同じであったため、この批判は適切ではないと言える。
[[1911年]](明治44年)から翌年にかけて自身が設計の機体、日野式飛行機を製作した。
40歳で部下の失態の身代わりに引責し軍人を辞め、その後生活は困窮した。
== 年譜 ==
*
*
*
**11月 - 歩兵[[中尉]]
*
*
*
*
**12月 - 代々木錬兵場で初飛行。
*
*
*
*
*
*
== 親族 ==
|