「バル・コクバの乱」の版間の差分

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そのころ、'''シメオン・バル・コシェバ'''という男が自分こそはユダヤ民族を救う救世主([[メシア]])であるといい始めた。これに対して当時の[[ユダヤ教]]の精神的指導者[[ラビ]]・[[アキバ・ベン・ヨセフ]]が支持を表明したことから人々の期待が一気に高まる。当時のユダヤ教思想の中に救世主待望論が持たれ続けていたのである。その救世主は政治的な指導者であり、人々を異民族の支配から解放してくれる人物であると人々は疑わなかった、といわれる([[福音書]]には、[[イエス・キリスト]]に政治的な指導者であることを求める人々に対し、それを[[たとえ話]]の形で否定するイエスの姿が描かれている)。シメオン・バル・コシェバは「星の子」('''[[バル・コクバ|シメオン・バル・コクバ]]''')というメシア称号を自称するようになる。
 
きっかけは[[130年]]の[[ハドリアヌス]]帝の巡幸であった。彼は精力的に帝国領内をめぐったが、[[70年]]の[[エルサレム攻囲戦 (70年)|エルサレム攻囲戦]]でローマ軍に破壊されたまま荒れ果てていた[[エルサレム]]にも足を伸ばした。彼はユダヤ人たちに同情し、エルサレムの再建・修復を約束した。しかし、自分たちの聖地エルサレムが「[[アエリア・カピトリ]]」という名前に変えられること、およびその計画に[[エルサレム神殿]]跡地に[[ユピテル]]神殿を立てることも含まれていることが判明するとユダヤ人の怒りが爆発した。また、[[モーセ]]以来神との契約のしるしであった[[割礼]]を時代遅れの野蛮行為として禁止しようとしたことなどもユダヤ人には耐えられないことであった。
 
ラビ・アキバの尽力によって最高法院も反乱の実行を計画。第一次ユダヤ戦争の問題点を徹底的に研究した上で、バル・コクバをリーダーとして対ローマ反乱に踏み切った。
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=== 戦後処理 ===
ハドリアヌス帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶をはかった。[[ユダヤ暦]]の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。[[律法]]の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた。さらにエルサレムの名称を廃して「[[アエリア・カピトリナ]]」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になってはじめてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる[[嘆きの壁]])の前に立つことを許された。ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤ人の敵対者[[ペリシテ人]]の名前からとったものである。現代まで続く[[パレスティナ]]の名前はここに由来している。
 
== 関連項目 ==