「王朗 (曹魏)」の版間の差分

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黄初7年([[226年]])5月、文帝が亡くなり[[曹叡]](明帝)が即位すると、王朗は蘭陵侯に昇進し、500戸の加増を受け、所領は1200戸となった。明帝に対しても、労役や出費の軽減を具申した。同年12月、[[司徒]]に転任となった。明帝が後継に恵まれないことを憂慮する上奏をしたところ、明帝に感謝されている。
 
王朗は儒学に通じ、『[[易経]]』『[[春秋]]』『[[孝経]]』『[[周礼]]』の伝(注釈)を著し、上奏や議論などの著述の全てが世に伝わっていた。[[正始 (魏)|正始]]6年([[245年]])、[[曹芳]]の代に王朗の『易伝』は、官吏登用の受験科目として採用された<ref>『三国志』「斉王紀」</ref>。また、旧知の許靖に、続いて劉備の没後に蜀の丞相となった[[諸葛亮]]に臣従を促す手紙を送ったが、返答はなかった。許靖は既に死去していたからだが、諸葛亮は[[陳羣]]ら他の魏の高官からの降伏勧告の手紙とまとめて、『正議』と題して反論を公表している<ref>『三国志』「諸葛亮伝」の注に引く『諸葛亮集』</ref>。
 
太和2年(228年)11月に死去。[[諡|諡号]]は成侯。その功績は絶大であり、文帝の時代、その所領を分割して一子が列侯され、さらに王朗の願いにより兄の子の王詳も取り立てられている。