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'''キャサリン・オブ・アラゴン'''('''Catherine of Aragon''', [[1487年]][[12月16日]] - [[1536年]][[1月7日]])は、[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の1人目の[[王妃]](1509年結婚、1533年離婚)、[[メアリ1世 (イングランド女王)|メアリ1世]]の生母。スペイン名は'''カタリーナ・デ・アラゴン'''('''Catalina de Aragón''')。しばしば'''カタリナ'''と呼ばれる。現代英語の表記は頭文字がCになることが多いが、当時はKが正しい。ただし、Katherine, Katharine, Katharinaと研究者によって表記が異なる。また、[[アントニア・フレーザー|アントニア・フレイザー]]はヘンリー8世の他の王妃([[キャサリン・ハワード]]、[[キャサリン・パー]])との区別のため、意図的にCを採用している。
 
== 生涯 ==
キャサリンは[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|]][[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]と[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|女王]][[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イザベル1世]]との間の末子として[[アルカラ・デ・エナーレス]]で生まれた。イングランドとの取り決めで[[1501年]]、最初に[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の長男でヘンリー8世の兄[[アーサー・テューダー|アーサー王太子]]に嫁いだが、その数ヶ月後に花婿は急逝した。
 
巨額の持参金の返却を惜しんだヘンリー7世は、次男ヘンリーとの婚約を持ちかけた。しかし[[1503年]]、王妃[[エリザベス・オブ・ヨーク|エリザベス]]が死去すると、彼女を後添えに要求した。さすがに厚顔無恥なこの申し出にスペイン側が硬化し、王はこの要求を取り下げた。
 
=== イングランド王妃 ===
再度王太子ヘンリーとの婚約が双方の合意で成立したが、それは[[旧約聖書]][[レビ記]]にある「人もし兄弟の妻を娶れば汚らわしきことなり」の一節に抵触する恐れがあった。なお、カスティーリャ・アラゴン両王家は[[ランカスター朝|ランカスター家]]、[[ヨーク朝|ヨーク家]]の祖とそれぞれ姻戚関係にあったことから<ref>[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]]の娘[[カタリナ・デ・ランカステル|キャサリン]]がカスティーリャ王[[エンリケ3世 (カスティーリャ王)|エンリケ3世]]に嫁いでいる一方、ヨーク公[[エドムンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]に[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]の娘[[イザベラ・オブ・カスティル|イサベル]]が嫁いでいる。</ref>、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった。そのため時の[[教皇]][[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]は教会法規により、特別な免除を与えて許可した。
 
[[1509年]]、ヘンリー7世の死により王位を継承したヘンリー8世と再婚した。[[1513年]]、フランス遠征中の夫に摂政を命じられていたキャサリンは、突然侵攻してきた[[スコットランド]]軍に対し、第2代[[ノーフォーク公]][[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]に反撃を命じ、ノーフォーク公は[[フロッドンの戦い]]で大勝した。また、1517年5月1日に起きたロンドンの暴動(「魔のメイデー事件」)では、ロンドンに滞在中のスペイン人が多数殺害されたにもかかわらず、キャサリンは暴動の主犯者たちを恩赦した。
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[[Category:イングランドの摂政]]
[[Category:女性摂政]]
[[Category:トラスタマラ家アラゴン系|きやさりん]]
[[Category:1485年生]]
[[Category:1536年没]]