「歴史家」の版間の差分

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最古の歴史家としてあげられるのは、「歴史の父」とも言われる[[ヘロドトス]]([[紀元前485年]]頃 - [[紀元前420年]]頃)であろう。彼は[[ペルシア戦争]]を物語的に叙述したが、その手法は人々の[[噂]]や[[ギリシア神話]]の世界観に基づくものが多く、物語に偏りがちであるため、[[実証主義]]的な歴史家としては『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』を著した[[アテナイ]]の[[トゥキディデス]]([[紀元前460年]]頃 - [[紀元前395年]])が最古といえる。トゥキディデスは複数の史料を元にし、20代の頃に自身が従軍し[[スパルタ]]に敗北を喫した[[ペロポンネソス戦争]]を詳細に記述した。彼が用いた[[史料]]の中には、彼が実際に見聞した[[ペリクレス]]の演説も含まれているが、彼自身の創作という説もある。彼の目的は、[[戦争]]の因果関係を明らかにすることであり、同時代の[[経済]]・[[政治]]・[[都市]]のありようをありのままに記そうとすることだった。
 
18~19世紀の[[歴史学]]の確立により、これ以降の歴史研究者は「歴史学者」と呼ばれることとなる。最初の歴史学者として名前があげられるのは主に[[エドワード・ギボン|ギボン]]([[1737年]] - [[1794年]])や[[レオポルト・フォン・ランケ|ランケ]]([[1795年]] - [[1886年]])であることが多い。[[イギリス]]のギボンは文明論的歴史観に基づき大著『[[ローマ帝国衰亡史]]』を著したが、当時の[[啓蒙主義]]的[[世界観]]から自由になることはできなかった。
 
これに対し、[[ドイツ]]のランケは同時代の[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の「歴史は世界精神の実現へと収れんしていく過程」であるとする[[弁証法]]的[[歴史哲学]]や、中世のキリスト教中心的史観、[[ルネサンス]]期の[[教訓主義]]などを批判し、[[政治史]]や[[外交史]]を中心に「客観的歴史叙述」に徹する姿勢を貫いた。彼の手法としてあげられるのは、厳密かつ広範囲な[[史料批判]](一次史料としての[[日記]]や備忘録、外交記録、当事者や周辺の人々の証言などを含む)と[[ロマン主義]]を統合させ、対象とする[[時代]]の普遍的概念を描きながらも、個別の事象をありのままに記そうと試みたことだろう。ランケの歴史研究、および歴史教育の手法は、彼が教壇に立っていた[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]を中心に、[[ドイツ]]のみならずヨーロッパ全土、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にも多大な影響を与えた。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスに対し、ランケが「近代歴史学の父」「客観的歴史叙述の父」と呼ばれる理由はそこにある。