「畑中健二」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[京都府]]出身。地主・畑中鋭次郎の二男として生れる。京都府立園部中学校を四年修了、三高文科を希望していたが周囲の勧めで[[陸軍士官学校予科]]を経て、{{jdate|[[1934|年]]([[昭和]]9年)[[6}}月]]、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](46期)を卒業。{{jdate|[[1934|年]]([[昭和]]9年)[[10}}月]]、[[砲兵]][[少尉]]に任官し野戦砲兵第1[[連隊]]付となる。[[陸軍砲工学校]]で学び、{{jdate|[[1940|年]]([[昭和]]15年)[[6}}月]]、[[陸軍大学校]](53期)を卒業した。
 
{{jdate|[[1935}}年]]([[昭和]]10年)頃より、[[井田正孝]]、[[竹下正彦]]とともに東大教授・[[平泉澄]]の直門として親交を深める。
 
陸士教官を経て、[[太平洋戦争]]に[[第3軍 (日本軍)|第3軍]][[参謀]]として出征。{{jdate|[[1942|年]]([[昭和]]17年)[[3}}月]]から7月まで[[フィリピン]]に出張し、4月に戦傷を受けた。同年8月、陸軍少佐に進級。[[陸軍省#兵務局|陸軍省兵務局]]課員(兵備課)、[[陸軍省#軍務局|軍務局]]課員(軍務課)を歴任。
 
終戦時に[[宮城事件]]の首謀者の一人となり、[[森赳]][[近衛師団長]]を殺害。
 
[[クーデター]]は未遂となり、{{jdate|[[1945|年]]([[昭和]]20年)[[8|15}}日]]、午前11時過ぎに[[二重橋]]と坂下門の間の芝生上で自決した。
 
遺書には「''松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵のために自己の魂も、国も、道も、一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する。''」と記し、辞世の句として「''今はただ思ひ殘すことなかりけり 暗雲去りし御世となりなば''」という歌を添えた。