「チュ・クオック・グー」の版間の差分

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[[1906年]]に、フランス当局はベトナム人植民地エリートの養生を目的として、フランス語、クオック・グー教育を柱とした「仏越学校」を設立した。しかし、クオック・グーは初等教育の3年間のみ教授され、漢文は中等教育での選択科目に留められるなど、フランス語を中心とした教育体制であることに変化はなかった。また[[科挙]]においても、漢文に加えて、クオック・グー、フランス語の課目が必修となった。
 
しかし、この時期、支配を受けるベトナム人知識人の間からもクオック・グーを蛮夷の文字として排斥するのではなく、むしろ受容することにより、ベトナム語の話し言葉と書き言葉を一致させて民族としてのアイデンティティを獲得しようとする動きも出てきた。[[1905年]]にはハノイで初めての漢文、クオック・グー併記の新聞『大越新報(Đại Việt tân báo)』が創刊された。さらに[[1907年]]には、[[ファン・ボイ・チャウ]](潘佩珠)らとともに当時のベトナム独立運動の中心にいた[[ファン・チュー・チン]](潘周楨)により、ハノイに「東京義塾(Đông Kinh Nghĩa Thục)」が創立され、同校では、漢文に加え、クオック・グー、フランス語が教授された。
 
フランス当局の後ろ盾により、総督府寄りの姿勢ではあったものの、クオック・グーを使用した文芸誌として、[[1913年]]にグエン・ヴァン・ヴィン(阮文永)主筆の『インドシナ雑誌(東洋雑誌/Đông Dương tạp chí)』、[[1917年]]にファム・クィン(范瓊)主筆の『南風雑誌(Nam Phong tạp chí)』が創刊された。南風雑誌は、漢文とクオック・グーが併用されており、時期を経るごとにクック・グーの使用比率が高まっていったことから、当時のベトナムの文字環境の推移に関する重要な研究材料となっている。
 
このように、クオック・グーが浸透した都市部では、新興のエリート層を中心にクオック・グーの識字率が高まり、伝統的な漢文・チュノム識字層を少しずつ圧倒していく形になった一方、地方では依然として漢学教育が権威をもっており、科挙の元受験生の私塾などに子を通わせる家庭も多かった。この時期には、識字率は低かったものの、クォック・グーと漢文・チュノムの両方(およびフランス語)を使いこなせるトップエリート層、漢文・チュノムしか読めない伝統的な知識人層や、クオック・グーしか使いこなせない新興の知識人層が併存し、雑誌、書籍なども複数の文字により刊行されていた。