「仙石秀久」の版間の差分

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秀吉は[[織田氏]]筆頭家老の[[柴田勝家]]と[[賤ヶ岳の戦い]]で対決。秀久も[[羽柴秀勝]]と共に十二番隊の将として参戦する予定であったが、秀吉は秀久に[[四国]]勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の[[長宗我部元親]]と対陣することとなる。淡路入りした秀久は[[菅達長]]を破り、その後[[小豆島]]を占拠し、[[十河存保]]を救援([[十河城#第二次十河城の戦い|第二次十河城の戦い]])するために四国へ渡る。手始めに[[高松頼邑]]が守る[[喜岡城]]を攻めたが、落とせずに撤退。次いで[[讃岐国|讃岐]]引田に上陸、[[引田城]]に入城した。天正11年([[1583年]])[[4月21日]]、長宗我部勢の[[香川之景|香川信景]]らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する([[引田の戦い]])。一説では、この戦いの最中に秀久は幟を取られる失態を見せたといわれている。敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固める事に専念し、瀬戸内の制海権維持によって四国勢を牽制した。
 
天正11年に賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀久はこれまでの功を評価され、淡路洲本城主5万石の大名となる。天正8年([[1580年]])との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年([[1581年]])といわれているため、これは誤りである可能性が高い。淡路受領後は淡路水軍、[[小西行長]]、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括し、[[紀州征伐]]では湯川一族討伐で功を挙げた。羽柴軍本隊による[[四国攻め]]の折には喜岡城を攻略、[[木津城]]攻めで城の要を抑え、城内の水源を絶つなど奮戦した。天正13年([[1585年]])、四国攻めの論功行賞により[[讃岐国|讃岐]][[高松城 (讃岐国)|高松]]10万石に加増された。
 
=== 改易 ===
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