「美浦トレーニングセンター」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
6行目:
かつて、[[1970年代]]までは関東地区の厩舎に所属する馬(俗に'''関東馬'''と呼ばれる)の調教については[[東京競馬場|東京]]、[[中山競馬場|中山]]の2つの競馬場と[[白井市|白井]]の拡張厩舎街(当時は中山競馬場白井分場。現在の[[競馬学校]]の所在地)を中心に実施されてきた。
 
とはいえ、調教に必要なコース本数が充分確保されていたわけではなく、馬場を保護するために調教でもコースの内外などを区分しての難しいやりくりなどを強いられ、また府中・中山いずれも周辺地域の宅地化の進展の一方で、馬を居住させる空間としては難しいものになりつつあった。また、競馬場周辺の[[環境問題]]にも対応する必要が出てきた。そこでまず関東地区で先に検討されていたのは、休養馬の保養所および若駒の育成調教場として、東京競馬場の分厩舎を新設するという構想であった。。<ref name="a">『トレーニング・センター展』p.7</ref>[[1959年]]にはその候補地として[[東京都]][[八王子市]][[片倉町 (八王子市)|片倉町]]が選定されるなど進展を見せていたが、[[1965年]]の[[多摩ニュータウン]]計画の発表で地価が高騰するなどの影響を受け、十分な敷地の確保が難しくなり、この分厩構想は断念された。また、中山競馬場の白井分場も1960年代に入ると千葉県による[[千葉ニュータウン]]計画の構想が浮上したことで<ref namegroup="a注釈">なお、千葉ニュータウンの事業計画の正式な制定は1966年である。</ref>、こちらも両本場と同様に周辺地域の宅地化・都市化の波が遠からず押し寄せることが予想される状況となった。
 
トレーニングセンター構想と厩舎群の競馬場からの移転計画は、東西ともに[[1961年]]に具体化した。関西地区では[[1964年]]に[[滋賀県]][[栗太郡]][[栗東市|栗東町]]が候補地に選定されるなど比較的順調に進展を見せていたが、関東地区の計画は難航した。[[1966年]]初頭には当時はまだ有力な国内馬産地の1つであった[[千葉県]][[成田市]][[三里塚]]を移転の有力候補としていたが、それより先に日本政府が[[新東京国際空港]]の候補地として三里塚を正式決定してしまった<ref group="注釈">現在の[[成田国際空港]]である。</ref>為に、新たな候補地を探さねばならなかった。<ref group="注釈">[[週刊Gallop]]が[[2009年]]に入って、美浦トレセンの建設秘話を連載した際に明らかになっている。</ref>それでも翌[[1967年]]には最終候補地として、茨城県稲敷郡美浦村、[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]](当時。現在は[[緑区 (横浜市)|緑区]])[[長津田]]地区、神奈川県[[厚木市]]棚沢地区の3ヵ所を選定。このうち、美浦村から誘致陳情書が提出され、また地元選出の[[赤城宗徳]][[衆院議員]]の尽力もあって、それを元に翌[[1968年]]、正式に美浦村が関東地区のトレーニングセンター候補地として選出され、同年中に調印も行われ、用地買収が開始された。<ref name="a" />
 
しかし、用地買収が1年も掛からず終了した栗東町とは対照的に、美浦村の用地買収は、多くの地主から退去に伴う代替地の要求が発生したこともあって<ref name="a" />完了に約4年もの歳月を要し、敷地の造成工事に着手できたのは、すでに[[栗東トレーニングセンター]]が開場した後<ref group="注釈">栗東トレーニングセンターは[[1969年]][[11月11日]]に開場した。</ref>の[[1972年]]9月になってからのことであった。<ref name="b">『トレーニング・センター展』p.8</ref>その後も[[オイルショック|第1次オイルショック]]の影響などでインフラ整備・建設工事はなかなか進展せず、何度も計画が変更されたが、[[1977年]]末にようやく全ての建設工事が完了。[[1978年]][[4月10日]]に開場し、両競馬場の厩舎群および多くの競馬関係者とその家族を当地に集約移転させた<ref group="注釈">東京・中山・白井からの競走馬や関係者の移動は[[1978年]][[3月7日]]から始まり[[4月6日]]に完了した。</ref>。
16行目:
美浦トレセンは競走馬の鍛練・調教を目的に設置されているトレーニングセンターとしては[[中央競馬]]・[[地方競馬]]を問わず日本国内で最大の規模の施設であり、厩舎区画は南地区・北地区の合計で約2300頭の競走馬を収容可能である。調教コースは厩舎群や馬場公園を挟む形で南北の2ヶ所に合わせて7つのトラックが設置されており、南コースには1600mの[[ウッドチップコース]](木片を敷き詰め、競走馬の足の負担を抑える)が、北コースには障害用の調教コースがある。さらに場内には馬の足腰の負担を抑えつつ強化するための[[坂路]]コース、脚元の弱い馬のためのスイミング・プールや水中歩行訓練装置、馬のクールダウンやリラックスのための逍遥馬道、海外レースに出走する競走馬が入る検疫厩舎、競走馬に総合的な医療行為を行える診療所なども設置されている。この種の施設としては、その規模・設備は世界的に見てもトップクラスの水準にあるとされる。
 
トレーニングセンターの敷地内には競走馬のトレーニング施設以外にも、競馬関係者の生活の為の施設設置されている。具体的には厩務員宿舎・騎手宿舎・独身寮・職員宿舎などの区画・建物が設けられており、当施設に所属・在籍の厩舍関係者・騎手・JRA職員などとその家族の約5000人が暮らしている。これは所在地である美浦村の人口の約3割を占める。トレセン近隣に自宅を構え通勤している競馬関係者も少なくない。トレセン所在の美浦村美駒地内には[[馬具]]専門店、[[ショッピングセンター]]や[[簡易郵便局]]、[[診療所]]、トレセンの入口周辺にも[[保育園]]・[[銀行]]の支店・[[コンビニエンスストア]]などが設置されており、競馬関係者やその家族の日常生活の大半をトレセン及び周辺地域だけで済ませられるシステムが構築されている。[[消防署]]の分署や[[警察]]の[[駐在所]]もトレセンからすぐの場所に設置されている。
[[2007年]][[5月31日]]に[[オールウェザー (競馬)|ニューポリトラック]]による調教コース導入が発表された。南馬場Cコースにおいて外柵(ラチ)側を約5メートル拡張し幅員25メートルのうち外側の15メートル部分に設置する工事が行われ、総工費は材料費を含め約9億円になった。同年[[11月14日]]に完成施設の詳細の発表と試走会が行われ、[[11月16日]]に開場した。
 
トレーニングセンターの敷地内には競馬関係者の生活の為の施設も設置されている。具体的には厩務員宿舎・騎手宿舎・独身寮・職員宿舎などの区画・建物が設けられており、当施設に所属・在籍の厩舍関係者・騎手・JRA職員などとその家族の約5000人が暮らしている。これは所在地である美浦村の人口の約3割を占める。トレセン近隣に自宅を構え通勤している競馬関係者も少なくない。トレセン所在の美浦村美駒地内には[[馬具]]専門店、[[ショッピングセンター]]や[[簡易郵便局]]、[[診療所]]、トレセンの入口周辺にも[[保育園]]・[[銀行]]の支店・[[コンビニエンスストア]]などが設置されており、競馬関係者やその家族の日常生活の大半をトレセン及び周辺地域だけで済ませられるシステムが構築されている。[[消防署]]の分署や[[警察]]の[[駐在所]]もトレセンからすぐの場所に設置されている。
 
このトレセン内宿舎や周辺に暮らし競馬に携わる直接の「中央競馬関係者」の他、周辺地域に数多く存在する競走馬の育成・休養を目的とした[[牧場]]の関係者、その他[[競馬新聞]]・[[スポーツ新聞]]などの競馬[[報道機関|マスコミ]]、[[馬運車|馬匹輸送]]、[[飼料]]販売などといった各種競馬関連産業に従事する者、トレセン内部・周辺の店舗の従業員などまでも含めれば、競馬の存在によって生計を立て暮らす者とその家族はトレーニングセンター・美浦村とその周辺地域で合わせて数万人にも及ぶとされ、美浦トレセンを頂点としたいわゆる一種の「競馬村」とでも言うべき様相を呈している。
 
[[2007年]][[5月31日]]に[[オールウェザー (競馬)|ニューポリトラック]]による調教コース導入が発表された。南馬場Cコースにおいて外柵(ラチ)側を約5メートル拡張し幅員25メートルのうち外側の15メートル部分に設置する工事が行われ、総工費は材料費を含め約9億円になった。同年[[11月14日]]に完成施設の詳細の発表と試走会が行われ、[[11月16日]]に開場した。
 
[[2008年]]には開設30周年を迎え、祝賀会が[[4月21日]]にトレーニングセンター内の厚生会館で行われた。