「ラオスの歴史」の版間の差分

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[[ラオス王国]]は[[1947年]][[7月19日]]にフランスとの間に締結された[[フランス・ラオス協定]]で名目上独立したが、フランス連合の枠内のみに限られ、外交・国防の決定権はフランスが持った。行政機関や軍隊・警察といった政府機関整備が急がれたが、60年もの植民地支配により、担当しうる人材確保は困難を極めた。また、植民地時代の公用語は[[フランス語]]、一般大衆の話す[[ラーオ語]]、三王国時代に独自の発展を遂げた発音の違いや不足している語彙をどのように補うかという難問があり、王国政府は[[1949年]][[11月27日]]に正字法の基本方針と[[国語]]のあり方についての検討委員会を設立した。
 
一方、ラオ・イサラ亡命政権は親仏派とベトミン共闘派に分裂した。右派の[[スワンナ・プーマ|プーマ王子]]王子らはヴィエンチャンに戻りフランス支配下のラオス王国政府に参加し、親フランスのピブン政権を発足させた。一方、左派の[[スパーヌウォン]]王子らは[[1950年]]8月、[[パテート・ラーオ]]政府を樹立し、抗仏闘争を宣言した。[[1951年]]には[[カンボディア]]、ベトナムの[[ホー・チ・ミン]]一派の抗仏組織らと「インドシナ合同民族統一戦線」を結成、対仏ゲリラ闘争を開始した。
 
ベトナムおよびラオスのこうした状況から、フランスは植民地支配の終結を判断。[[1953年]][[10月22日]]にラオス王国は完全独立した。ラオス王国ではプーマ首相の下、「第一次経済・社会開発五ヶ年計画」が実行に移され、国づくりへの取組みが本格的に始動した。
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[[1960年]][[5月23日]]、住民らの手を借り、ポンケーン刑務所からスパーヌウォン王子らNLHS幹部が脱走。反政府活動は次第に激化していった。当時のチャンパサク国防相によれば[[1960年]]初期には南部ボロベン高原、アッタプー、パークセーなどでもっとも反乱軍がはびこっていた。
 
[[1960年]][[8月8日]]、王国政府軍第二大隊長コン・レー大尉がクーデターで首都ヴィエンチャンを占拠。コン・レー大尉は[[スワンナ・プーマ|プーマ]]元首相に対し左派との連立組閣を要求、元首相はNLHSとの連立政権を発足させた。アメリカはラオス援助を停止し、[[タイ王国]]もアメリカの要請で国境封鎖を断行した。これらの経済制裁にラオス王国は困窮し、[[ソビエト連邦]]に援助を要請、ソビエト連邦との国交を樹立した。ソビエト連邦にとってはこの要請は東南アジアへ進出する契機となり、緊急救援物資の輸送などを積極的に行った。
 
アメリカはコン・レー大尉のクーデターから避難していた{{仮リンク|プーミ・ヴァン|en|Phoumi Nosavan|label=ノヴァ}}将軍ら右派を援助し、軍を再編成した。将軍は1960年[[12月16日]]首都ヴィエンチャンを奪回し、{{仮リンク|ヴン・ウム|en|Boun Oum}}内閣を発足させた。NLHS側は1960年末から再び軍事行動を開始し、[[1961年]][[1月1日]]シェンクァンを占領し、その後ルアンパバーンやフォンサリなどといった地域を次々と占拠していった。こうした事態を受けアメリカ合衆国大統領[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]は第7艦隊に警戒態勢を発動するなどしてNLHSへ圧力をかけたが、NLHS軍はその後もサムヌア、ヴィエンチャン、ルアン・ナムター、カムムアン、サヴァナケートなどの各地域に勢力を拡大していった。
 
タイのサリット首相はNLHSの伸張を阻止すべく[[東南アジア条約機構|SEATO]]へ派兵要請をしたが、実現しなかったためSEATOを激しく批判した。[[1961年]][[5月16日]]からのジュネーヴ国際会議で、[[チューリッヒ]]にラオス諸派の会談を設ける事が決定された。翌[[1962年]][[6月12日]]、この三派会談で、[[スワンナ・プーマ|プーマ]]首相による新連立政権樹立が合意された。これを受けジュネーヴ国際会議は「ラオス王国の中立に関する宣言」を[[7月23日]]に採択した。ラオス王国内に駐在するアメリカ軍及びベトナム軍は撤退し、ようやく平和が訪れたかに見えたが、[[1963年]]中立派のケッサナ大佐と左派の{{仮リンク|・ポルセナ|en|Quinim Pholsena|label=キム}}外相が[[暗殺]]され、以後中立派の政治勢力は弱体化が台頭した。同年4月には{{仮リンク|クープランシット・アバイ|en|Kouprasith Abhay|label=クープランシット}}将軍によるクーデター未遂が起こった。連立政権への不信を増したNLHSは閣僚を引き揚げ、以後政権は中立派がプーマ首相のみで閣僚は全て右派となり、発足当初の三派連合政権としての機能を完全に失った。
 
[[1965年]]7月にはNLHS不参加の形式選挙が実施され、右派が政権を握った。NLHSは中立派の軍と連携を強化し、この頃より呼称を「[[人民解放軍 (ラオス)|人民解放軍]]」と改めた。[[1967年]]末頃サヴァナケートで活動を開始し、翌[[1968年]]にはジャール平原、ルアンパバーン空港、ムオン・スイ基地などを占領した。同年北爆が停止されるとアメリカ軍はラオス国内へ爆撃目標を転換、パテート・ラーオ支配地域は人口密集地域においても激しい空爆が行われるようになった。ひと月1.7万~2.7万回の出撃、1日800回もの空爆が行われた。[[1969年]]にはナチ占領下の欧州戦線で投下された爆弾量を上回る猛爆となった。この空爆により70万人以上の国内難民が発生し、35万人が犠牲となった。これらの爆撃で使用されたクラスター爆弾の多くが不発弾化して広範な田畑や村落部に残った。NLHSは[[1970年]]3月の声明で、アメリカ軍の完全撤退・総選挙実施・臨時連合政府樹立・休戦を訴えた。王国政府側はベトナム軍が駐留するかぎりありえないとこれを退けた。このためNLHSと中立派は軍事行動を激化させ、同年3月以降、サムトーン基地、アトプー、サラワンを制圧した。
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この後、[[1972年]][[パリ和平会談]]を受け、王国政府とNLHSとの交渉で、2月21日「ラオスにおける平和の回復および民族和解に関する協定」(通称ラオス和平協定)が調印され、ラオス王国における王政維持を含む枠組みを定めた政治体制について合意がなされた。[[1973年]]、ラオス和平協定が成立、アメリカ軍はベトナムから撤退。[[1974年]]王国政府とNLHSは解体され、三派合同で設立した暫定国民連合政府によって、行政機関の改組が実施されていった。
 
[[1975年]][[5月1日]]には首都で住民2万人規模の大規模な反右派デモが起こり、鉾先を向けられた右派閣僚五名が辞職したほか、高級官僚・軍人・警察官の相当数が辞職または国外に脱出した。[[5月21日]]、アメリカ国際開発局(USIDA)ビルがデモ隊群集に占拠され、暫定国民連合政府がUSIDAの閉鎖を示唆すると、アメリカ政府は[[5月27日]]撤収に合意した。[[12月1日]]、ルアンパバーンで開催された全国人民代表者会議において、暫定国民連合政府によりシー・[[サワーンワッタナー]]国王の退位が承認され、王制の廃止と共和制への移行が宣言、[[スパーヌウォン]]最高人民議会議長兼大統領を頭に置くラオス人民民主共和国が誕生した。