「ラオスの歴史」の版間の差分

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{{main|:en:Franco-Siamese War of 1893|フランス領インドシナ}}
 
[[帝国主義]]時代になると、[[ヨーロッパ]][[列強]]が[[アジア]]各地を次々と[[植民地]]にしていった。ラオスもその例外ではなく、植民地獲得競争に巻き込まれた。[[1885年]]、[[清仏戦争]]の結果、清はベトナムに対する[[宗主権]]を失う。すでに、フランスは、[[1863年]][[カンボジア]]を保護国化し、植民地化をめぐる次の標的を内陸国ラオスに定めた。[[1887年]]に黒旗軍がルアンパバーン王国に侵攻し、壊滅的な打撃受けたがフランスに助けられた事件をきっかけに、ルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れる道を選択した。[[1893年]]、[[タイ王国]]との間でラオスをめぐり{{仮リンク|仏泰戦争|en|Franco-Siamese War}}が起き、フランスはタイを圧倒し、[[1905年]]には保護国化を完了し、[[フランス領インドシナ]]が完成した。[[1902年]]から6年間に渡って{{仮リンク|オン・ケーオ|en|Ong Keo}}による反乱が[[セーコーン県|セーコーン]]で起こった。
 
[[1940年]]11月、タイとフランスとの間で[[タイ・フランス領インドシナ紛争|仏印国境紛争]]が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を開始した。ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員の潜入などを通して行われ、「ラオス人もタイ人も結局は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調することによって、抑圧者フランスに対して協力することを訴えた。このタイの反仏抵抗に対してフランスがとった政策は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・家族・祖国」をスローガンに「母なる祖国・フランス」への奉仕が説かれた。このような政策を広めるために大きな役割を果たしたのは1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国民を構想するものが現れてきた。そして1945年3月9日の日本軍による仏印武装解除後、祖国・国民を構想する動きが活発になっていった。