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[[Image:Drury Lane map.png|thumb|200px|right|ドルリー・レーン周辺の街路。]]
 
'''ドルリー・レーン'''(Drury Lane)は、[[ロンドン]]の[[コヴェント・ガーデン]]地区の東の境界を成している通りで、[[オールドウィッチ]]と[[{{仮リンク|ハイ・ホーボーン]]([[:|en:High Holborn|High Holborn]])}}の間に伸びている街路。北側は[[カムデン・ロンドン特別区]]に、南側は[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]に入る。
 
この通りは、19世紀後半にオールドウィッチ通りとして再開発された[[{{仮リンク|ウィッチ・ストリート]]([[:|en:Wych Street|Wych Street]])}}の西端から始まる。そして、[[エリザベス1世]]の時代に[[ガーター勲章|ガーター騎士団]]の一員であった[[サー]]・[[ウィリアム・ドルリー]]が建てた家へと向かっていく。正面に馬車置き場、背後に庭園を備えた[[{{仮リンク|ドルリー・ハウス]]([[:|en:Drury House|Drury House]])}}は、女王の寵臣であった[[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|エセックス伯]]による、失敗に終わった謀反の陰謀の現場であった。17世紀には、[[ウィリアム・クレイヴン (初代クレイヴン伯)|クレイヴン伯]]のロンドンの邸宅となり、その後は[[ボヘミア]]王妃[[エリザベス・ステュアート]]を看板にした[[パブ]]となっていた。しかし、18世紀になると、ドルリー・レーンはロンドンでも最悪のスラムと化し、もっぱら売春<ref>Sir [[:{{仮リンク|リチャード・スティール|en:|Richard Steele|label=Richard Steele]]}} in ''The Tatler'' (No. 46) gives a picture of Drury Lane as a district divided into particular "ladyships," analogous to "lordships" in other places, "over which matrons of known ability preside."</ref>と、[[ジン (蒸留酒)|ジン]]酒場の通りになっていた。一帯は最終的には[[キングスウェイ]]と[[オールドウィッチ]]の開発に場所を空けるため、結局のところ一掃された。
 
この通りの名前は、しばしば当地にある[[シアター・ロイヤル (ドルリー・レーン)|シアター・ロイヤル]]のことを指して用いられるが、現在の建物になる前の17世紀から、この場所には劇場が存在していた。ドルリー・レーンには[[{{仮リンク|ニュー・ロンドン・シアター]]([[:|en:New London Theatre|New London Theatre]])}}も立地している。
 
ドルリー・レーンの通りには、[[マフィン売りの男]]が住んでいる、とよく知られた[[童謡]](ナーサリー・ライム)に歌われている。
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==関連項目==
*[[:{{仮リンク|コリー・シバー|en:|Colley Cibber]]}}
*[[コヴェント・ガーデン]]
*[[:en:List of eponymous roads in London]] - 人名にちなんで命名されたロンドンの通りのリスト