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早くから政治を志したが、実家は人里はなれた雪深い山岳地帯。光泉寺幼稚園、草津小学校を卒業。その後進学のために下宿して前橋市立第三中学校に入学。県下随一の進学校・[[群馬県立前橋高等学校]]に合格する。地元出身の[[代議士]]・小渕恵三に対する憧れから[[早稲田大学]]に進学。
 
卒業後は[[小渕恵三]]の書生となり、その後小渕恵三事務所に就職。[[リクルート事件]]のさなかの1990年、小渕の選挙に絡んで[[公職選挙法]]違反で逮捕され、懲役1年6ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。1994年、群馬県議会議員選挙出馬のため小渕恵三事務所退職。1995年、群馬県議会議員選挙に[[新進党]]、[[日本社会党|社会党]]、[[公明]]および非自民・非共産の統一会派結成を目指すフォーラム群馬21や群馬[[民社協会]]、[[連合]]群馬の推薦を受けて吾妻郡選挙区から出馬、[[自由民主党|自民党]]から出馬した[[南波和憲]]とともに当選を果たす。1999年、群馬県議会議員選挙に2度目の当選(保守系無所属)。その後[[自由民主党]]に入党。[[2003年]]、県議3選を果たしたが、[[2006年]]、群馬県知事選挙出馬のために任期途中で辞職した。
 
[[2007年]]の群馬県知事選挙では、旧[[自治省]]出身の官僚知事の[[小寺弘之]]が5選を目指していたが、それに対抗する形で、2006年7月1日に正式に出馬表明、7月4日に県議を辞職した。2007年の群馬県知事選挙は、40代の山本と官僚出身の60代小寺での保守の一騎打ちとなると見られていたが、小寺と対立していた自民党県議らが元県議会議長の[[大澤正明|大沢正明]]を擁立。保守分裂の三つ巴選挙へと突入した。小寺の5期20年の長期県政をめざす姿勢に対して、山本は、政策「群馬維新」を掲げた。その政策は、権力の自制と公約は期限付きでスピードが大切という観点から、3期12年の多選禁止条例を主張。県の権限を出来る限り市町村へ移譲する県内分権と県議会議員時代と同様に現場主義の徹底、政令市構想推進の支持、知事退職金廃止など、本当の住民自治の理想を実現したいと訴えた。選挙では当時分裂状態にあった[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]群馬県連の[[中島政希]]、[[石関貴史]]といったいわゆる保守系メンバーの支援を得た。(もう一方の[[角田義一]]、[[富岡由紀夫]]などの労組系は小寺を支援)そして地元の吾妻郡では圧倒的な支持を集めたものの、都市部で伸び悩み、[[大澤正明|大沢正明]]に敗れた。
 
平成21[[2009(2009年)1]]1月、群馬県議会前橋選挙区補欠選挙に自民党公認立候補し当選(群馬県議会議員通算4期目)。その後[[前橋市]]長選挙への立候補を表明し、[[2011年]]4月の県議選には立候補しなかった。[[2012年]]2月、前橋市長選挙に無所属([[自由民主党]]・[[みんなの党]]推薦)で立候補した
 
== 外部リンク ==