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== 将軍家の菩提寺として ==
[[慶長]]7年([[1602年]])8月に[[徳川家康]]の生母'''於大の方'''([[水野氏]])が京都[[伏見城]]で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の[[智香寺]](智光寺)で火葬した。位牌は[[安楽寺 (蒲郡市)|安楽寺]](愛知県蒲郡市)に置かれ、[[光岳寺]](千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年([[1603年]])に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して[[堂宇]](堂の建物)を建て始め、彼女の法名「'''伝通院殿'''」にちなんで[[院号]]を'''伝通院'''とした。家康は、当初は菩提寺である芝の[[増上寺]]に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世[[観智国師]]([[慈昌|源誉存応]])の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年([[1608年]])9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧[[正誉廓山]]上人(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
 
[[画像:Odai.jpg|200px|thumb|於大の墓]]