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'''オッド・ネルドルム''' (Odd Nerdrum, [[1944年]][[4月8日]]- [[スウェーデン]]生まれ) は[[ノルウェー]]の[[画家]]。[[アイスランド人]]。大画面に描かれる古典的な表現は[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]や[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]などを彷佛とさせ、古典技法を現代風に展開し国際的に高く評価されている。
 
オッド・ネルドルムは自身の作品を芸術はアートであるよりも[[キッチュ]]として理解されであるべきだという主張を持っている。彼の著作「[[On Kitsch]]」<ref>http://www.boiseweekly.com/boise/the-kitsch-campaign/Content?oid=926148</ref>
や「[[Kitsch more than Art]]」は、20世紀のモダンアートによって忌避されてきたキッチュの要素をレオナルド ダヴィンチのような多くの過去の巨匠との関連の中で再考、再評価しようとするものある。また[[キッチュ]]芸術現代のアートの間で行う区別起こっている諸問題を説明している。
 
== 生涯 ==
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 オッド・ネルドルムは、[[第二次世界大戦]]の最後の年1944年に、[[スウェーデン]]で生まれた。
 
[[近代主義モダニズム]]の風潮が[[ノルウェー]]へもたらされたネルドルムはその頃、オスロのアートアカデミーの学生だった。 アカデミーによって計画された研究旅行でストックホルム勉強旅行の際、近代美術館に立ち寄った学生達は[[アンディ・ウォーホル]][[ロイ・リキテンスタイン]]の作品のまわりに集まった学生のグループからネルドルムはその集まりから脱出した。彼は国立博物館の[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]・ホールへ向かい、[[クラウディウス・キウィリスの謀議]]([[:en:The Conspiracy of Claudius Civilis|The Conspiracy of Claudius Civilis]])の前で魅了され立ち尽くした。 それは、このことが彼の人生の転機となり、レンブラントの絵を学ぶ決をする。
現代美術が主流の時代においての中で、彼の決意姿勢は、他の学生やアカデミーの教授との間で論争の的となった。しかし、彼らの誰も典的技術に熟達していようと全くしなかったうえため彼ら全員は彼ネルドルム計画方針が反動的で不愉快であると考えてい看做された。ネルドルムはアカデミーを去り、巨匠の名作と向かい合い始めることとなる。
ネルドルムは、[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]ならびに[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]へ特定の別に共感を感じはじ覚え始める。劇的な気質が繁栄反映され描いたカラヴァッジオの作風と、的で忍耐の男を選ぶレンブラント。 両極端この対照的2つ二人の画家は、ネルドルの絵画世界で、の中に反映され順応し形づくられ手本となっている。
 
=== アート界への出現と反抗 ===