「ジョン・ニール」の版間の差分
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[[12月4日]](文久2年10月13日)、ニールは[[江戸城]]に登城し、第二次東禅寺事件の賠償交渉を開始した(生麦事件に関する本国からの訓令はまだ届いていなかった)。第二次東禅寺事件に関しては、本国の[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ラッセル]]外相からの支持に基づき、1万ポンド(4万ドル、3万1100両)の賠償金を要求した。幕府はこれに対する即答は避けた。ニールはその後10日間江戸に滞在したが、幕府からの返答を得られなかったため、横浜に戻った。その1週間後に、幕府は3000ドルなら支払うと回答したが、両者の差は大きく合意にはいたらなかった。
[[1863年]][[1月28日]](文久2年12月9日)、[[外国奉行]][[竹本正雅]]がニールを訪れ、[[御殿山 (東京都
[[3月4日]](文久3年1月15日)、生麦事件に対する[[12月24日]]付けの本国からの要求が届いた。内容は幕府に対しては公式な謝罪と賠償金10万ポンドの支払い、薩摩に対しては犯人の処刑と2万5千ポンドの支払いを要求するものであった。訓令はまた、もし幕府がこれを拒否した場合は「船舶の捕獲または海上封鎖、あるいはその両者」を含む適切と思われる手段の実施を求め、薩摩が拒否した場合には艦隊を率いて鹿児島へ向かい、「港の封鎖、砲撃、蒸気船の拿捕」など最適な手段を取ることを求めていた。
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