「ブトロス・ブトロス=ガーリ」の版間の差分

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[[1992年]]、第6代[[国際連合事務総長|国連事務総長]]に選出された。『[[平和への課題]]』(アジェンダ・フォー・ピース)などの提言書を次々と発表し、[[国際連合|国連]]改革(主に財政改革)、[[国連平和維持活動|PKO]]改革を実施した。
 
しかし、ガーリが主張したPKO改革の大きな柱であった「平和強制部隊(平和執行部隊)」は、[[ソマリア内戦]]への介入([[第二次国際連合ソマリア活動]])で予想以上の損害を出し、アメリカ軍を初めとした平和強制部隊を構成する部隊の多くが撤退。ソマリア内戦は一層の泥沼化を見せて、ガーリの平和強制部隊構想は失敗に終わる。また、この失敗を受けて、[[1996年]]の事務総長選挙の際にはアメリカが[[拒否権]]を発動して再選を阻止されたため退任した。この判断には圧倒的多数の理事国がガリを選出していたにも関わらず、アメリカ一国の反対で押し切られたとして、国際社会から大きな批判がアメリカに集中した。一方で[[人員削減]]・給与カットなどに終始し、国連の業務に支障が出るなど、改革が必ずしもいい方向に行かなかったためにアメリカは分担金の支払いを拒否しており、この退任は妥当であるという評価もある。学者であるがゆえに、国連政策の理論を構築したが、実務面では非常に評価が低いという見方も存在する。国連改革およびガーリの後任は、国連事務局を長年勤めていた[[コフィー・アナン]]に引き継がれることになる。
 
[[1997年]]11月、[[ハノイ]]において開催された第7回[[フランコフォニー国際機関|フランコフォニー]]・サミットにおいて、新設の[[フランコフォニー事務総長|事務総長]]に選出され、翌1998年から2002年まで務めた。