「北条煕時」の版間の差分

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父は[[北条氏 (政村流)|政村流]]の北条為時。[[正室]]は第9代執権の北条貞時の娘。
 
[[引付衆]]などを務め、[[嘉元]]3年([[1305年]])に[[長門探題]]となる。同年に[[嘉元の乱]]が起こり、祖父[[北条時村 (政村流)|時村]]が討たれ、[[北条宗方]]らが滅ぼされた。[[応長]]元([[1311年]])には[[連署]]に就任し、[[正和]]元年([[1312年]])に11代執権宗宣出家すると12代執権に就任する。しかし、実権煕時[[内管領]]の[[長崎円喜]]に握られてい生き残った。
 
[[延慶]]2年([[1309年]])3月に引付再編が行なわれて1番頭人となる<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉66頁。</ref>。4月9日には[[北条貞顕|金沢貞顕]]と共に寄合衆に加えられ<ref>(『金文』324号)『金沢貞顕』〈人物叢書〉66頁。</ref>、この頃から煕時は[[得宗]]の[[北条貞時]]や金沢貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の1人になった<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉67頁。</ref>。8月には引付1番頭人を辞任している<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉67頁。</ref>。
 
[[応長]]元年([[1311年]])9月に第10代執権の[[北条師時]]が死去して連署だった[[北条宗宣|大仏宗宣]]が第11代執権に就任すると煕時は[[連署]]に就任した<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉73頁。</ref>。[[正和]]元年([[1312年]])に宗宣が出家すると12代執権に就任する。しかし、実権は[[内管領]]の[[長崎円喜]]に握られていた。
 
正和4年(1315年)7月11日に病のため執権職を辞任し、同日に出家して道常と号したが、7月18日に死去した<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉79頁。</ref>。享年37。